年間に、あの大使館をくぐった者は、総計七千七百七十七人です。ところがあの門を出て来たものがたった四千四百四十四人なんです。不思議じゃありませんか」
「別に不思議とは思われんがのう。算術をすると、すぐ答が出るじゃないか。七千七百七十七人マイナス四千四百四十四人イコール三千三百三十三人と御明算《ごめいさん》が出る。すなわちこの人数たるや、某国大使館内に現に寝泊りしている館員の数である。どうじゃ、簡単な算術ではないか」
「いえ、そうじゃないんで……。あの大使館員は、実数わずかに三百三十二名なんですぞ」
「たった三百三十二名」
「そうです。すなわち、もう一度引き算をいたしまして、三千三百三十三名から引くの三百三十二名は三千一名と答が出来まして、この三千一名なる人間が、奇怪にもあの某国大使館に入ったきり、出ても参らず、館内に生活もして居らずという無理数的《むりすうてき》存在なんです。ですからお客さんも、その無理数の中にお加わりになりませんようにと御注意申上げますような次第で、へい」
「いや、よく分りましたわい。しかしわが金博士に限って、心配は無用でござる。では、さらばさらば」
と、金博士は事務長に挨拶すると、舷《ふなべり》をまたいで、傾斜した船側《せんそく》の上を滑《すべ》り台《だい》のように滑って、どさりと百花咲き乱れる花壇の真中に、トランク諸共《もろとも》尻餅《しりもち》をついたのであった。
5
なにがさて、気の短い金博士のことであるから、身の危険も、相手方の思惑《おもわく》も考えないで、その足でつかつかと某国大使館の玄関から押し入ったものである。
「大先生《だいせんせい》は居られぬか。王水険《おうすいけん》大先生のお部屋はどこであるか。只今金博士が推参《すいさん》いたしましたぞ」
とうとう王水険大先生が朝寝坊の居間が、金博士|自《みずか》らの捜索《そうさく》によって発見せられた。
「やややや、お前は金か。お前の来るのは、まだ二三日先だと思って油断をしていたが、やややや、もう来たか」
王大先生は、喜ぶより前に、愕《おどろ》き且《か》つ呆《あき》れてしまった。
「大先生、おなつかしゅうございますな。ところで、この某国大使館では近々先生の馘《くびき》るという話を御書面《ごしょめん》で承知しましたが、けしからんですなあ。私がこれから某国大使に会いまして
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