ないかと噂をしている者があった。
 兼吉とは何者ぞ。親の代からの料理人で、この粋月に流れこんで来たのは七八年前で、今年四十二になる男だという。その他のことは分らない。
 こんなわけで、結局帆村は、田鶴子の跡を追うことにしたのである。それで春部カズ子を連れて那谷駅で下車したんだが、この那谷駅で下車するということは、もう一つ別の方向よりする示唆[#「する示唆」はママ]があった。それは例の千早館に赴くのはこの駅で下車するのが順路であり、そして千早館は駅前から出る黒岳行のバスに乗り、灰沼村で降りるのがよいと分っていたのである。
(田鶴子は千早館へ行ったのに違いない)
 帆村は確信をもって、そう解釈していた。

     3

 灰沼村の停留場で下車したのは、帆村と春部の二人の外に、土地の人らしい一人の老婆があった。この三人が、バスが行ってしまった後に残された。
「お前さんがたは、又千早館へ行く衆かね。やめたがいいね。悪いことはいわないよ」
 婆さんは、胡散くさそうに帆村とカズ子を見くらべていった。
「あ、お婆さん。親切にいってくれて、ありがとうよ。千早館の評判が高いもんだから、私たちもちょっと好奇心を起して見物に来たんだが、そんなにあそこは危いところかね」
 帆村は馴々しく老婆に話しかけた。
「行かないがいい、行くんじゃないよ。悪い怨霊《おんりょう》が棲んでいるところだよ、村の者はそれを知っているから容易に近寄らねえが、都の衆はずかずか入り込んで皆怨霊の餌食になっちまうだよ」
 老婆は恐ろしそうに肩をすくめた。
「怨霊の餌食になったところを、誰か見た者があるのかね」
「見た者はねえけれど、餌食になり果てたことは誰にも知れているよ。その証拠には、駅を下りて千早館へ向った若い者の数と、それが引返して来て汽車に乗って行った者の数とが、うんと喰い違っているって、駅員さんは言っとるがのう。帰って行った衆は、ほんの僅かの人数だとさ」
「中に泊り込んでいるんじゃないかね」
「ばかいわねえこった。あんな八幡《やわた》の藪《やぶ》しらずのような冥途屋敷の中に、どうして半年も一年も暮せるかよう。第一その間、ちょっくら姿も見せねえでおいてよう」
「なるほど。で、その八幡の藪しらずというのは何だね」
「わたしも話に聞いただけだが、なんでも千早館の中に入ると、廊下ばかりぐるぐる続いていて、気味がわるいといったらないってよ。そして寝る部屋はおろか、住む部屋さえ見当らないということよ」
「じゃあ現在、誰も住んでいないんだね」
「魔性の者なら知らぬこと、まともな人間の住んでいられるところじゃない」
 魔性の者? 横で聞き耳を欹《そばだ》てていた春部は、どきんとした。
「ねえお婆さん。千早館を見物に、同じ女がちょくちょくやって来るのを知らんかね。背のすんなりと高い、顔の小さい、弁天さまのような別嬪《べっぴん》だが……」
 帆村は、ちょっとかまをかけた。
「ああ、あの女画描きかね。あの女ならちょくちょく来るが、ほんとに物好きだよ。物好きすぎるから嫁にも貰い手がなくて、あんなことしているんだろう」
「その女画家は、千早館に泊るんかね」
「いいや、聖弦寺《せいげんじ》に泊るということだよ。聖弦寺というのは、千早館の西寄りの奥まったところにあるお寺のこんだ」
「寺に女を泊めるのかね」
「なあに、住職なしの廃寺だね。そこであの女画描は自炊しているという話じゃが、女のくせに大胆なこんだ」
「お婆さん。その女画家から何か貰ったね」
「と、とんでもねえ。わたしら、何を貰うものかね、見ず知らずの阿魔《あま》っ子から……」
 帆村は軽く笑んだ。
「私もお婆さんにいろいろ聞いたから、お礼にこれをあげよう」と、帆村は二三枚の紙幣を老婆の手に握らせ「まあいいよ。取っときなよ、いくらでもないんだ。……それからもう一つ、二十五日の晩か二十六日の朝に、一人の若い男が汽車で着いて、千早館の方へ行かなかったかね」
「二十五日か二十六日というと三日前か四日前だね。はて、聞かないね、その話は……」
「五尺七寸位ある大男で、小肥りに肥って力士みたいなんだ、その人はね。もっとも洋服を着ているがね。髪は長く伸ばして無帽で、顔色はちと青かったかもしれない……」
「聞きませんね、そんな人のことは……」
 帆村の一番知りたいと思ったことは、残念にもこの老婆の口からは聞き出せなかった。

     4

 爪先あがりの山道を、春部をいたわりながらのぼって行く帆村荘六だった。
 だが、いたわる方の側の息が苦しそうに喘《あえ》いでいるのに対し、いたわられている方のカズ子は岩の上を伝う小鳥のように身軽だった。
「先生、田川は本当に、ここへ来ているのでしょうか」
「それは今のところ分らない。しかし田鶴子の動静を掴むことが出来たら
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