彼はピューレットを手にもった。そして三脚椅子の上にのぼった。
 ガラス管の中から、清澄なる液をピューレット一杯に吸いとった。そしてそれを排水口に流した。
 そのあとで、薬品棚から一万倍のコリン液と貼札してある壜を下ろし、空のピューレットをその中にさしこんだ。
 液は下から吸いあがってきた。
 彼は敏捷にまた三脚椅子の上にとびあがった。そしてコリン液を抱いているピューレットを、そっとガラス管の中にうつした。
 液はしずかに、リンゲル氏液の中にとけていった。
 ガラス管の中をじっと見つめている彼の眼はすごいものであった。が、しばらくして彼の口辺に、微笑がうかんだ。
「――動きだした」
 腸《はらわた》は、ふたたび、ぐるっ、ぐるっ、ぐるっと蠕動をはじめたのであった。
「コリンを忘れていたなんて、俺もちっとどうかしている」
 と彼は少女のように恥らいつつ、大きな溜息をついた。
「腸《はらわた》はまだ生きている。しかし早速、訓練にとりかからないと、途中で死んでしまうかもしれない」
 彼はシャツの腕をまくりあげ、壁にかけてあった汚れた手術衣に腕をとおした。

     素晴らしき実験

 彼は、別人のように活撥になっていた。
「さあ、訓練だ」
 なにを訓練するのであろうか。彼は、部屋の中を歩きまわって、蛇管や清浄器や架台など、いろいろなものを抱えあつめてきた。
「さあ、、医学史はじまっての大実験に、俺はきっと凱歌をあげてみせるぞ」
 彼は、ぼつぼつ独り言をいいながら、さらにレトルトや金網やブンゼン燈などをあつめてきた。
 そのうちに彼は、あつめてきた道具の真ん中に立って、まるで芝居の大道具方のように実験用器の組立てにかかった。
 見る見るガラスと金具と液体との建築は、たいへん大がかりにまとまっていった。その建築はどうやら生ける腸《はらわた》の入ったガラス管を中心とするように見えた。
 電気のスイッチが入ってパイロット・ランプが青から赤にかわった。部屋の隅では、ごとごとと低い音をたてて喞筒モートルが廻りだした。
 医学生吹矢隆二の両眼は、いよいよ気味わるい光をおびてきた。
 一体彼は、何を始めようというのであるか。
 電気も通じてブンゼン燈にも薄青い焔が点ぜられた。
 生ける腸《はらわた》の入ったガラス管の中には、二本の細いガラス管がさしこまれた。
 その一本からは、ぶくぶくと小さい泡がたった。
 吹矢隆二は、大きな画板みたいなものを首から紐でかけ、そして鉛筆のさきをなめながら、電流計や比重計や温度計の前を、かわるがわる往ったり来たりして、首にかけた方眼紙の上に色鉛筆でもってマークをつけていった。
 赤と青と緑と紫と黒との曲線がすこしずつ方眼紙の上をのびてゆく。
 そうしているうちにも、彼はガラス管の前に小首をかたむけ、熱心な眼つきで、蠕動をつづける腸《はらわた》をながめるのであった。
 彼は文字通り寝食を忘れて、この忍耐のいる実験を継続した。まったく人間業とはおもわれない活動ぶりであった。
 今朝の六時と、夕方の六時と、この二つの時刻における腸《はらわた》の状況をくらべてみると、たしかにすこし様子がかわっている。
 さらにまた十二時間経つと、また何かしら変った状態が看取されるのであった。
 実験がすすむにつれ、リンゲル氏液の温度はすこしずつのぼり、それからまたリンゲル氏液の濃度はすこしずつ減少していった。
 実験第四日目においては、腸《はらわた》を収容しているガラス管の中は、ほとんど水ばかりの液になった。
 実験第六日目には、ガラス管の中に液体は見えずになり、その代りに淡紅色のガスがもやもやと雲のようにうごいていた。
 ガラス管の中には、液のなくなったことを知らぬげに、例の腸《はらわた》はぴくりぴくりと蠕動をつづけているのであった。
 医学生吹矢の顔は、馬鹿囃の面のように、かたい笑いが貼りついていた。
「うふん、うふん。いやもうここまででも、世界の医学史をりっぱに破ってしまったんだ。ガス体の中で生きている腸《はらわた》! ああなんという素晴らしい実験だ!」
 彼はつぎつぎに新らしい装置を準備しては古い装置をとりのけた。
 実験第八日目には、ガラス管の中のガスは、無色透明になってしまった。
 実験第九日目には、ブンゼン燈の焔が消えた。ぶくぶくと泡立っていたガスが停った。
 実験第十日目には、モートルの音までがぴたりと停ってしまった。実験室のなかは、廃墟のようにしーんとしてしまった。
 ちょうどそれは、午前三時のことであった。
 それからなお二十四時間というものを、彼は慎重な感度でそのままに放置した。
 二十四時間経ったその翌日の午前三時であった。彼はおずおずとガラス管のそばに顔をよせた。
 ガラス管の中の腸《はらわた》は、今や常温湿度[#底本では「常温常湿度」]の大気中で、ぐにゃりぐにゃりと活撥な蠕動をつづけていた。
 医学生吹矢隆二は彼の考案した独特の訓練法により、世界中のいかなる医学者も[#底本では「いかなる医学生も」]手をつけたことのなかったところの、大気中における腸《はらわた》の生存実験についに成功した[#底本では「生存実験について成功した」]のであった。

     同棲生活

 医学生吹矢は、目の前のテーブルの上に寝そべる生ける腸《はらわた》と、遊ぶことを覚えた。
 生ける腸《はらわた》は、実におどろいたことに、感情に似たような反応をさえ示すようになった。
 彼はスポイトで[#底本では「彼がスポイトで」]もって、すこしばかりの砂糖水を、生ける腸《はらわた》の一方の口にさしいれてやると、腸《ちょう》はすぐ活撥な蠕動をはじめる。そして間もなく、腸《ちょう》の一部がテーブルの上から彼の方にのびあがって、
「もっと砂糖水をくれ」
 というような素振りを示すのであった。
「あはあ、もっと砂糖水がほしいのか。あげるよ。だが、もうほんのちょっぴりだよ」
 そういって吹矢は、また一滴の砂糖水を、生ける腸《はらわた》にあたえるのだった。
(なんという高等動物だろう)
 吹矢はひそかに舌をまいた。
 こうして、彼が訓練した生ける腸《はらわた》を目の前にして遊んでいながらも、彼は時折それがまるで夢のような気がするのであった。
 前から彼は、一つの飛躍的なセオリーをもっていた。
 もしも腸《はらわた》の一片がリンゲル氏液の中において生存していられるものなら、リンゲル氏液でなくとも、また別の栄養媒体の中においても生存できるはずであると。
 要は、リンゲル氏液が生きている腸《はらわた》に与えるところの生存条件と同等のものを、他の栄養媒体によって与えればいいのである。
 そこへもっていって[#底本では「そこにもっていって」]彼は、人間の腸《はらわた》がもしも生きているものなら、神経もあるであろうしまた環境に適応するように体質の変化もおこり得るものと考えたので、彼は生ける腸《はらわた》に適当な栄養を与えることさえできれば、その腸《はらわた》をして大気中に生活させることも不可能ではあるまい――と、机上で推理を発展させたのである。
 そういう基本観念からして、彼は詳細にわたる研究を重ねた。その結果、約一年前になってはじめて自信らしいものを得たのである。
 彼の実験は、ついに大成功を収めた。しかもむしろ意外といいたい簡単な勤労によって――。
 思索に苦しむよりは、まず手をくだした方が勝ちであると、さる実験学者はいった。それはたしかに本当である。
 でも、彼が思索の中に考えついた一見荒唐無稽の「生ける腸《はらわた》」が、こうして目の前のテーブルの上で、ぐるっ、ぐるっと生きて動いているかとおもうと、まったく夢のような気がするのであった。
 しかももう一つ[#底本では「しかしもう一つ」]特筆大書しなければならないことは、こうして彼の手によって大気中に飼育せしめられつつあるところの腸《はらわた》が、これまで彼が予期したことがなかったような、いろいろ興味ある反応をみせてくれることであった。
 たとえば、今も説明したとおり、この生ける腸《はらわた》が砂糖水をもっとほしがる素振りを示すなどということはまったく予期しなかったことだ。
 それだけではない。腸《はらわた》と遊んでいるうちに彼はなおも続々と、この生ける腸《はらわた》がさまざまな反応を示すことを発見したのだ。
 細い白金の棒の先を生ける腸《はらわた》にあて、それからその白金の棒に、六百メガサイクルの振動電流を伝わらせると、彼の生ける腸《はらわた》は急にぬらぬらと粘液をはきだす。
 それからまた、吹矢は生ける腸《はらわた》の腸壁の一部に、音叉でつくった正しい振動数の音響をある順序にしたがって当てた結果、やがてその腸壁の一部が、音響にたいして非常に敏感になったことを発見した。まずそこに、人間の鼓膜のような能力を生じたものらしい。彼はやがて、生ける腸《はらわた》に話しかけることもできるであろうと信じた。
 生ける腸《はらわた》は、大気中に生活しているためにその表面はだんだん乾いてきた。そして表皮のようなものが、何回となく脱落した。この揚句の果には、生ける腸《はらわた》の外見は大体のところ、少し色のあせた人間の唇とほぼ似た皮膚で蔽われるにいたった。
 生ける腸《はらわた》の誕生後五十日目ころ――誕生というのは、この腸《はらわた》が大気中に棲息するようになった日のことである――においては、その新生物は医学生吹矢隆二の室内を、テーブルの上であろうと本の上であろうと、自由に散歩するようになるまで生育した。
「おいチコ、ここに砂糖水をつくっておいたぜ」
 チコというのは、生ける腸《はらわた》に対する愛称であった。
 そういって吹矢が、砂糖水を湛えてある平皿のところで手を鳴らすと、チコはうれしそうに、背(?)を山のように高くした。そしてチコに食欲ができると、彼の生き物はひとりでのろのろと平皿の[#底本では「灰皿の」]ところへ匍ってゆき、ぴちゃぴちゃと音をさせて砂糖水をのむのであった。その有様は、見るもコワイようなものであった。
 かくて医学生吹矢隆二は、生ける腸《はらわた》チコの生育実験をまず一段落とし、いよいよこれより大論文をしたため、世界の医学者を卒倒せしめようと考えた。
 ある日――それはチコの誕生後百二十日目に当っていた。彼はいよいよその次の日から大論文の執筆にかかることとし、その前にちょっと外出をしてこようと考えた[#底本では「外出してこようと考えた」]。
 いつの間にか、秋はたけ、外には鈴懸樹の枯葉が風とともに舗道に走っていた。だんだん寒くなってくる。彼一人ならばともかくも今年の冬はチコとともに暮さねばならぬので電気ストーヴなども工合のいいものを街で見つけてきたいと思ったのだ。
 また買い溜をしておいた罐詰もすっかりなくなったので、それも補充しておきたい。チコのために、いろんなスープをさがしてきてやろう。
 彼はこの百数十日というものを、一歩たりとも敷居の外に出なかったのである。
「ちょっと出かける。砂糖水は、隅のテーブルのうえに、うんと作っておいたからね」
 彼は急に外が恋しくなって、チコに食事の注意をするのもそこそこに、入口に錠をおろし、往来にとびだしたのだった。

     誤算

 医学生吹矢隆二は、つい七日間も外に遊びくらしてしまった。
 一歩敷居を外に踏みだすと、外には素晴らしい歓喜と慰安とが、彼を待っていたのだ。彼の本能はにわかに背筋を伝わって洪水のように流れだした。彼は本能のおもむくままに、夜を徹し日を継いで、歓楽の巷を泳ぎまわった。そして七日目になって、すこしわれにかえったのである。
 チコの食事のことがちょっと気になった。日をくってみると、あの砂糖水はもうそろそろ底になっているはずだった。
「まあ一日ぐらいは、いいだろう」
 そう思って彼はまた遊んだ。
 その日の夕方、彼はなにを思ったか、足を○○刑務病院にむけた。そして熊本博士を訪問したのであった。
 博士は、吹矢があまりに人間臭い人間にか
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング