底本では「旧藩主の血なんか」]引いているのであろうと善意に解し、したがってこの衛門では、常に第一公式の敬礼をしていた。
ふふんと鼻を鳴らして、弊服獅子頭の医学生吹矢隆二は、守衛の前を通りぬけると、暗い病院の植込みに歩を運んだ。
彼はすたすたと足をはやめ、暗い庭を、梟《ふくろう》のように達者に縫って歩いた。やがて目の前に第四病舎が現われた。
(南から三番目の窓だったな)
彼はおそれげもなく、窓下に近づいた。そこには蜜柑函らしいものが転がっていた。これも熊本博士のサーヴィスであろう――とおもって、それを踏み台に使ってやった。そして重い窓をうんと上につき上げたのである。
窓ガラスは、するすると上にあがった。うべなるかな、熊本博士は、窓を支える滑車のシャフトにも油をさしておいたから、こう楽に上るのだ。
よって医学生吹矢は、すぐ目の前なるテーブルの上から、やけに太い、長さ一メートルばかりもあるガラス管を鷲づかみにすることができた。
「ほほう、入っているぞ」
医学生吹矢は、そのずっしりと重いガラス管を塀の上に光る街路燈の方にすかしてみた。ガラス管の中に、清澄な液を口のところまで充たしており、その中に灰色とも薄紫色ともつかない妙な色の、どろっとしたものが漬かっていた。
「うん、欲しいとおもっていたものが、やっと手に入ったぞ、こいつはほんとうに素晴らしいや」
吹矢は、にやりと快心の笑みをたたえて、窓ガラスをもとのようにおろした。そして盗みだした太いガラス管を右手にステッキのようにつかんで、地面に下りた。
「やあ、夜の庭園散歩はいいですなあ」
衛門の前をとおりぬけるときに、およそ彼には似つかわしからぬ挨拶をした。が、彼はその夜の臓品が、よほど嬉しかったのにちがいない。
「うえっ、恐れいりました」
守衛は、全身を硬直させ、本当に恐れいって挨拶をかえした。
門を出ると、彼は太いガラス管を肩にかつぎ下駄ばきのまま、どんどん歩きだした。そして三時間もかかって、やっと自宅へかえってきた。街はもう騒ぎつかれて倒れてしまったようにひっそり閑としていた。
彼は誰にも見られないで、家の中に入ることができた。彼は電燈をつけた。
「うん、実に素晴らしい。実に見事な腸《はらわた》だ」
彼は、ガラス管をもちあげ電燈の光に透かしてみて三嘆した。
すこし青味のついた液体の中に彼のいう「腸《はらわた》」なるものがどろんとよどんでいる。
「あ、生きているぞ」
薄紫色の腸《はらわた》が、よく見ると、ぐにゃりぐにゃりと動いている。リンゲル氏液の中で、蠕動をやっているのであった。
生きている腸《はらわた》!
医学生吹矢[#底本では「医学当吹矢」と誤り]が、もう一年この方、熊本博士に対し熱心にねだっていたのは、実にこの生きている腸《はらわた》であった。他のことはききいれても、この生きている腸《はらわた》の願いだけは、なかなかききいれなかった熊本博士だった。
「なんだい、博士。お前のところには[#底本では「お前のところは」]、男囚が二千九百名もいるんじゃないか。中には死刑になるやつもいるしさ、盲腸炎になったりまた変死するやつもいるだろうじゃないか。その中から、わずか百|C・M《ツェーエム》ぐらいの腸《はらわた》をごまかせないはずはない。こら、お前、いうことをきかないなら、例のあれをあれするがいいか。いやなら、早く俺のいうことをきけ」
などと恐喝、ここに一年ぶりに、やっと待望久しかりし生きている腸《はらわた》を手にいれたのであった。
彼はなぜ、そのような気味のわるい生きている腸《はらわた》を手に入れたがったのであろうか。それは彼の蒐集癖を満足するためであったろうか。
否!
リンゲル氏液内の生態
生きている腸《はらわた》――なんてものは、文献の上では、さまで珍奇なものではなかった。
生理学の教科書を見れば、リンゲル氏液の中で生きているモルモットの腸《ちょう》、兎の腸《ちょう》、犬の腸《ちょう》、それから人間の腸《ちょう》など、うるさいほどたくさんに書きつらなっている。
標本としても生きている腸《ちょう》は、そう珍らしいものではない。
医学生吹矢が、ここにひそかに誇りとするものは、この見事なる幅広の大|腸《ちょう》が、ステッキよりももっと長い、百|C・M《ツェーエム》もリンゲル氏液の入った太いガラス管の中で、活撥な蠕動をつづけているということであった。こんな立派なやつはおそらく天下にどこにもなかろう。まったくもってわが熊本博士はえらいところがあると、彼はガラス管にむかって恭々しく敬礼をささげたのだった。
彼は生ける腸《はらわた》を、部屋の中央に飾りつけた。天井から紐をぶら下げ、それにガラス管の口をしばりつけたものであった。下には、ガ
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