、あの音楽浴てえやつは耳から入るのはごく少くて、殆ど全部が廊下から螺旋椅子を伝わって身体の中に入りこむのだ。だからよ、この振動減衰器を臀に敷いてさえいれば、螺旋椅子から伝わってくる39[#「39」は縦中横]番音楽の振動を相当に喰い止めることができるんだ。だから俺は、あんな人喰い音楽なんかに酔っぱらいやしないんだ」
「ふーン、なるほど。しかしひどいことをする男だ。それが知れたらどうするんだ」
「知れたらペン公が喋ったと思うぜ。いいかい。さもなければ知れっこないんだ。俺はあの人喰い音楽にかかったようなふうにウーンウーンうなるのがとてもうまいのだ。脂汗だってタラタラ流れてくるよ。お前は知るまいが、座席の前面には隠しマイクロフォンがついているんだ。だからこっちのうなり声は、そのまま総理部の監視所へ伝送されるのだ。靴男工ポールのうなっているのは明らかに自記装置《オートグラフ》に出ている。うなるのを忘れていりゃ警報器《アラーム》が鳴りだすんだ。俺はそんなヘマなことはやらないや」
 ペンはますます呆れ顔だった。見る目嗅ぐ鼻を持ったミルキ閣下に一杯喰わせて得々としている男が、彼の親しい友人の中にいたのである。あまりに強き政治の裏には、あまりに強き反動がある。ポールの罪だけではないとペンは思った。そしてポールと話しておれば、音楽浴の麻酔がジワジワと融けてくるのをさえ感じた。彼もまたポールと同じく、ミルキ閣下を冒涜する一人であると思った。
「ねえポール。そういえばバラに注意したがいいよ。あの女はお前のことを廃物電池といってさげすんでいたぜ。バラにこの秘密を嗅ぎつかれると大変だ」
「バラはお前の細君じゃないか。お前がしっかりしていりゃ、知れるきづかいはない」
「うんにゃ、バラは男のように鋭い女だ。俺の手にはおえない」
「なんだペン公、亭主のくせに、情ない弱音を吹くな」
「いや亭主はもう廃業しようかと思っている。あんな女に連れ添っていると、世の中がいっそう味気なくならあ」
「へえ、そいつは本気か。別れてしまって、また女房を探すんだろうが、誰かに見当をつけているのかい」
「冗談じゃない。気の合う優しい女なんていないものだな。なあポール。俺はお前が男友達でなくて女友達だったらいいと思うよ」
「ナニ女友達」ポールが口を丸くあけてパチパチ目をまたたいた。「ペン公、本当にそう思うかい」
「本当に思うって聞くのかい。もちろんさ。なぜそんなことを聞くんだい」
 ポールは無言でペン公の手を握って引き立てた。そして部屋の隅に立っている衝立の蔭に引張りこんだ。
 スルスルと衣服の摺れ合う音がした。衝立の上に、ポールの上衣がパサリとかかった。それからガチャリと皮革が垂れ下った。
 そのとき、中からペンの愕く声が聞えた。ポールの制する声を押し切ってペンは大声で叫んだ。
「――ああこのことだな。お前が自分で身体を解剖しているって噂のあったのは。なんだこれは大変な手術じゃないか。俺は急にお前が厭になった!」

      4

 約束のとおり、ちょうど二十時であった。
 アロアア区の戸口に佇む一個の人影があった。長身のすっきりした男性だった。
 表札には「ミルキ夫人」と記されてあった。
 扉が音もなくスーッと下にさがった。
 中には純白の緞子《どんす》張りの壁が見えた。その中から浮彫りのようにぬけいでた一個の麗人があった。頤から下を、同じく純白の絹でもって身体にピタリと合う服――というよりも手首足首にまで届くコンビネーションのような最新の衣裳を着、その上に幅広の、きわめて薄い柔軟ガラスで作ったピカピカ光る透明なガウンを長く引きずるように着ていた。
「おお博士コハクでいらっしゃるわネ」
 銀の鈴を鳴らすような大統領夫人の声に、かの男はうやうやしくその前にひざまずいた。
「令夫人に忠誠を誓います」
 ミルキ夫人はホホと笑って、博士を奥の一室に導いた。そこは金と赤との格子模様でもって、天井といわず床といわず、眩しきまでに飾りつけのあるサロンだった。部屋の真中にはガラスで作った大テーブルがあって、その上には高級な玻璃の器が所狭くならんでいた。豪華な晩餐の用意ができていたのである。ミルキ夫人は博士を向い合った椅子に招じた。
 ガラスの大テーブルの真中には、やや高い棚のようなものがあった。夫人が釦を押すと、この棚の中では上下に往復運動するエレヴェター式の運搬器《コンヴェアー》が動きだした。テーブルの下から古い酒や結構な料理が静かに上ってきては、主人と博士の前に機械的にはこばれた。用のなくなった皿は自然にテーブルの下におりていって、見えなくなるのだった。夫人が一九三七年製の葡萄酒の盃をあげると、反対運動のように博士も盃をあげた。夫人が蜂の子をつまみあげて口にもってゆくと、博士もこれにならった。そしてその合間々々に、会話がとりかわされた。
「博士。貴下の設計になる音楽浴は、すばらしき効果をあげています。ミルキ閣下においても、殊の外の恐悦です。わたしもまた、敬意を表するにやぶさかではありません」
 博士は黙って首を下げた。
「しかしですネ、博士」と夫人は酒の盃を下に置いて、「音楽浴の勲功も大きいが、その一方において音楽浴が同時に大きな罪悪をも、もたらしているということを気にしないでいられません」
 博士は身体を硬直させたまま口だけを動かして、
「罪悪とは?」
「それは人間性への反逆だからです。第39[#「39」は縦中横]番の国楽は、支配者の勝手きままな統制条件だけでできています。それは人間をあやつるのに最も都合のいいように、あらためることにあって、そういうあらため方を生きた人間に加えてはたして無理がないであろうかという考慮が払われていません。事実、あの音楽浴のお蔭で国民は体躯においても活動力においても品行においても、みちがえるように立派になりました。だが一方において人間性を没却したことは、国民の身体の中にある毒素の欝積をもたらしています。それは日夜積み重なって、今にきっと爆発点に達するでしょう。わたしは国民の一部が、すでにこの毒素の欝積に気づいているものと見ています」
「毒素の欝積があるとしても、毎日十八時の音楽浴がそれを解消しているではありませんか」
「解消したように見えるだけです。一時は本当に解消するのでしょう。しかしそれは完全に解消するのではありません。麻酔はどこまでいっても麻酔です。賢明なる貴下がそれに気がついていないはずはないのです」
「ミルキ夫人よ。私は閣下に忠誠を誓い、そしてご命令によって動いているだけの学者なのでございます」
「お黙りあそばせ。貴下は音楽浴や人造人間を発明する科学者にすぎないと言うのでしょうが、どうしてどうして、貴下は科学者だけなものですか。貴下は科学者であるよりも、数等卓越した政治家なんです。ミルキ閣下などはそばへ寄れないくらいの偉人なんです」
「お言葉が過ぎるようにぞんじます。私は忠誠を誓う一国民にすぎません。ご命令によって忠実に動くことが精々な人間です」
「そんなことがあるものですか。この国をミルキが支配するよりも、貴下が支配するほうがどのくらいいいかしれないのです。貴下が支配者になれば、わたし自身も今の百倍も幸福になれることでしょう。博士、さあこっちを向いて、わたしの眼を見て下さい。わたしの震える唇を見て下さいましな。この世にわたしが魂と肉体とを献げるべき男性は貴下より外にないのです。さあ、どうかわたしを抱きしめて下さい。わたしに命じて下さい。わたしは貴下のためにどんなことでもしますわ。ミルキ一の美人であるわたしが国民の前でたった一言唇を開けば、国民はわたしの言うとおりになります。わたしの真の敬い、そして愛するのは博士コハクである、皆さんは博士に忠誠を誓いなさいといえば、百万人の国民は立ちどころにそうするにちがいありません。さあ、そうしてもっといい国家を樹てましょう。恋愛だとか性欲だとか嗜好だとか人間の欲望を徹底的に進展する新国家を樹てましょうよ。さあわたしを早く抱きしめて下さい」
 ミルキ夫人は爬虫類を思わせるようなしなやかな[#「しなやかな」に傍点]身体をくねらせて椅子から立ち上った。そして博士コハクの膝にその全身を投げかけたのだった。

      5

「まあ、貴下はどうかなすっていらっしゃるのじゃない?」
 と、ミルキ夫人は博士の膝の上で、愕きの声をあげた。
 博士は別になんにもこたえず、相変らずじっと前方を見つめていた。
「だって、貴下のお身体は死人のように冷たいんですもの。わたしの身体はまるで氷の上に載っているように冷えてきましたわ。おお気味が悪い。貴下は本当に生きてらっしゃるのでしょうね」
「フフフフ」と博士が笑った。「生きているようでもあり、また死んでいるようでもありますよ」
「えッ、も一度おっしゃって!」
 と、夫人が博士の胸にすがりついたその時だった。入口の扉《ドア》が荒々しくあいて、サロンへドタドタと飛びこんできた者があった。一人はミルキ閣下、一人は針金毛の女大臣アサリ女史だった。
 ミルキ夫人は、それと見るより早く、博士の膝から跳ね下りた。ミルキ閣下は、髭の中から大きな両眼をむきだし、鉄丸のような拳を振り上げながら、
「どうも結構な場面を拝見するものだ。法令では大統領夫人と庶民との恋愛的交渉を禁止してあるので、こんな場面なんか永遠に見られないかと思っていたのだ。お前は知ってやったか知らないでやったか分らぬがこのひどい冒涜の場面は先程からテレビジョンで全国へ放送されていたんだぞ。余が識ったばかりではなく、国民全体が識っているわ。そうなれば後はどうなるか、二人とも充分覚悟していることだろうな」
 と博士コハクに詰めよった。
 博士はそれでも冷然と構えていた。
「テレビ放送で全国に送られていたとすれば、この部屋で私の言った言葉も理解されているはずです。私の潔白はそれで証明されるでしょう」
 すると後から女大臣アサリ女史が憎々しげな赭ら顔を出して、
「博士、それはまことにお気の毒ですがネ、テレビ放送にはお二人の所作事が見えただけで、声の方はラジオが停ったきりで高声器はウンともスンとも鳴りませんでしたよ。だから貴下が何を喋ったか、それを知っている国民はただ一人もありませんでしょう」
「えッ、私たちの動作だけを放送して、声を放送しないなんて、そんなばかげたことがあっていいものですか。閣下のお言葉じゃないが、法令によればテレビは必ずラジオとともに放送する規程になっています」
 博士コハクは、今までの沈黙を破って、突如雄弁に喋りだした。
「はッはッはッ」と女大臣は無遠慮に笑って、「法令は閣下のお出しになるものです。今日閣下がテレビとラジオとは必ずしも同時に放送するを要せずという改正法令をお出しになったと仮定すれば、博士の抗議は意味ないことになるじゃありませんか。そして謹んで一言申し上げる光栄を有しますが、今日そのように改正法令が出たところなんです。だからテレビだけ送っても違反ではない……」
「それは許せない欺瞞だ。ことさら私たちの関係を誤解させるための悪辣な計略だ。何故《なにゆえ》の中傷です。何故《なにゆえ》の欺瞞です。それを説明して下さい」
 博士コハクは直立した身体から火のような言葉を吐いた。
 髭の閣下はみるみる蒼ざめた。が、彼はこのときブルブル慄える声で号令した。
「問答は無益だ。女大臣アサリよ、はじめ命じておいたとおり二人を処刑するんだ。それッ」
 ミルキ閣下は言い捨てるなり、アサリ女史をしたがえ外へ飛びだすなり扉《ドア》をしめた。
 このときまで壁を背にして傍観していた美しきミルキ夫人は、この様子に愕いて自分もともに室外へ飛びだそうとした。しかし扉《ドア》は鉄の壁でもあるかのようにビクとも動かなかった。
「おお、開けて下さい。わたしをどうしようというのです。閣下それではお話が違うではありませんか」
 ミルキ夫人は狂人のようになって扉《ドア》をドンドンと叩いた。そして開閉用の釦スイッチを押しつづけたが、閉まった扉は再び
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