いくたびか変り、最後には薬がかかった色の液が白い泡をたてて沸騰《ふっとう》し、もうもうと白煙が天井の方まで立昇った。雪子はそれを見ると狂喜してコップを眼よりも上に高くさしあげ、
「ああ、ついにあたしは、元の世界へかえれるんだわ。そしてあたしの研究の勝利が確認されるんだわ。ああ、なんというすばらしい喜び、すばらしい感激でしょう」
 といってから、貴重な薬液の入った泡立つコップをもう一度高くさし上げ、それからコップを自分の唇のところへ持っていって、一気にそれを呑みほしたのだった。
 からとなったコップが、雪子の唇をはなれ、しずかに台の上におかれた。が、次の瞬間、コップは横にとんではっしと壁にあたり、粉々に砕《くだ》けた。雪子が腕を大きく振ったからであった。腕だけではない。雪子は腰から上の上半身をゼンマイ仕掛けの乗馬人形のように踊らせて振りまわした。髪がくずれて焔《ほのお》のように逆だち、両眼は皿のようにかっと見開き、口は今にも裂けそうになったが、とたんにはげしい痙攣《けいれん》と共に口から真黒い汁《しる》をだらだらと吐《は》きはじめた。と、雪子の容貌はたちまち一変して、目の前に黒い隈《くま》ができ頬はこけ、顔面にはおびただしい皺《しわ》があらわれたと思ったら、彼女はばったり実験台の上に倒れてしまった。そして全く動かなくなってしまったのである。
 あまりのことに、道夫もまたその場に気を失って倒れてしまった。
 道夫が気がついてみると、彼は同じ部屋で、浮浪者姿の老人に抱かれていた。あの怪しい老人がいつこんなところへ入りこんだものか、ふしぎであった。その外に、雪子の両親がいた。
「道夫君、しっかりしたまえ」
 老いたる浮浪者の声は、意外にも若々しい響《ひびき》を持っていた。そして道夫は、それをどこかで聞いたことのある声に思った。
 それも道理、道夫がもう大丈夫ですと答えると、その老人は帽子を脱ぎ、それから白髪頭《しらがあたま》を脱いで机上に置き、頬につけていた髯《ひげ》をむしりとった。すると老人の顔はなくなって、なんと名探偵蜂矢十六の若々しい顔がでて来たではないか。
「雪子姉さんは?」
 道夫が、おどろきの中に叫んだ。
「あっちの部屋へ遺骸《いがい》をうつしてある。やっぱりだめだったよ。雪子さんにはあの薬が強すぎたと見える。あの薬を呑むことが最後の機会だったんだがねえ。惜しいことにそれは失敗に終った。われわれはすばらしい天才を失ってしまった」
 すすり泣く声が聞えた。雪子の両親が、手を握りあって泣いているのだった。
 この事件について、始めから隠れたる探究をつづけていた蜂矢探偵は、この日も雪子の家のまわりを監視中であったところ、室内に雪子と道夫があらわれたので早速《さっそく》家人に知らせ、そして成行《なりゆき》をそっと別室から窺《うかが》っていたのだった。
 雪子が死んでしまったので、三次元世界と四次元世界との間の交通がどうした方法によってできるのか、ついに謎のまま残されることになった。蜂矢十六は、それは多分身体にある特殊の振動を加えることではないかと思うと道夫にちょっと語ったが、息たえた雪子の死体が明らかに三次元世界へもどりえたこと、それまでは雪子の身体にふれたものは気持わるい振動を感じたことから思いあわせて、それは本当かもしれない。
 川北先生はその後、六十日目にようやく意識を回復したが、先生の話によると、雪子学士とともに四次元漂流中の記憶といえば、苦しさの外になにもおぼえていないそうである。三次元世界と四次元世界との交通を、これから誰が開こうとするのか。道夫少年が大きくなったらそれを進めるかもしれない。そのときは蜂矢探偵と川北先生とがよい相談相手になることであろう。



底本:「海野十三全集 第11巻 四次元漂流」三一書房
   1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷発行
初出:「子供の科学」
   1946(昭和21)年3月〜1947(昭和22)年2月
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2005年1月16日作成
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