料理になるべく宿命づけられているとも知らず、稜々たる三角形の鰭を水面に高くあらわして、近海産の世にも恐ろしきタイガー・シャーク、つまり短く書くと虎鮫が、幾百頭幾千頭と知らず、溌刺として波を切り沫をあげて猛烈なる集団運動をやっているところは、とても人間業とは見えぬげに勇ましき光景であった。
「もし大帥閣下、馮副官からの無電がまいりました」
と、蒋秘書官が、楊《ヤン》博士の長い袖を引いた。
「なんだ、なにごとか」
「電文によりますと、どうもトーキーのフィルムをそんなにじゃんじゃん消費せられては困るというのです。目下輸入が杜絶していて、あともういくらもストックがないから、フィルムを使うのをやめてくれとのことです」
「な、なんだ。フィルムを消費するのをやめろというのか。怪々奇々なる言かな。吾が輩は政府依嘱の仕事をやるについて、必要だから使っているのだ。フィルムのことは、こっちで心配すべき筋合いではない。よろしくそっちのフィルム係を督戦したまえと、すぐに電信をうってやりたまえ。じ、実に手前勝手なことをいってくる政府だ」
と、楊《ヤン》博士はかんかんの態である。
それと入れかわりに、訓練部長が、準備のできたことを知らせてきた。
「楊《ヤン》閣下、これからすぐ、第七十七回目の練魚がやれます」
「よおし、ではそっちへゆこう」
楊《ヤン》博士は、のそりのそりと練魚司令部へ足をはこんだ。そこは海岸の中へずっとつきだした弁天島のような小嶼《こじま》があった。教官連をはじめ、それぞれの係員はそれぞれの配置について、いまや命令の下るのを待つばかりになっていた。
楊《ヤン》博士は、水うち際の適当なる場所につっ立った。
「では、始めるぞ」
「みんないいか、用意!」
海面には虎鮫が、将棋の駒のようにずらりと鼻をならべて左右の戦友をピントの合わない眼玉で眺めている。
「いいねえ。では――はいッ、キャメラ!」
――という具合になって来たが、練魚の最初においては、トーキー撮影とたいしたかわりがない。しかし、そのあとは断然ちがってくるのであった。
ガガーン、ガガーン。
それが虎鮫どもへの信号であった。鮫どもはいっせいにスタート・ラインをはなれて前方へわれ先へとダッシュした。ものすごいスパートである。鮫膚と鮫膚とは火のようにすれあい鰭と鰭との叩きあいには水は真白な飛沫となって奔騰し、あるいは戦友の背中を飛魚のように飛び越えてゆくものあり、魚雷の如く白き筋を引いて潜行するものあり、いや壮絶いわん方なき光景だった。
五十人のキャメラマンは、しずかにクランクモーターの調子を見守っている。言い忘れたが、これらのキャメラマンはことごとくガラス張りの海底にカメラを据えているのであった。ただ集音器だけは、水上に首を出していた。
虎鮫隊は、どこまで走る。
ちょうどその前面にあたって、一隻の大きな鋼鉄船の模型が、上から巨大な起重機でもって吊り下げられ、もちろんその船底と廻るスクリューとは水面下にあった。
がんがん、がりがりがり、と激しい衝撃音がする。
くわっくわっくわっ、と、オットセイのような擬音のうまい鮫もまじっていた。そのとき楊《ヤン》博士は、ころよしと銅鑼《どら》のまんなかをばばんじゃらじゃらと引っぱたいた。
いっせいに、真にいっせいに、いままで形相ものすごく、模型船をかじっていた虎鮫どもは、かじるのをやめて、さっと身を引き、粛々として、またスタート・ラインに鼻をならべて引返してくるのであった。実に、なんというか、まことに感にたえる楊《ヤン》博士の訓練ぶりであった。
虎鮫どもが、一汗入れているうちに、五十人のキャメラマンによって海底から撮影されたただいまの猛攻撃のフィルムは、ただちに上にはこばれ、まず第一に現像工場内にベルトでおくられ、わずか一分間で反転現像された。それから第二の審判室に送られ試写幕にうつる鮫どもの活躍ぶりを見ながら百五十人の審判員によって、審判記録されるのであった。
いったいなにを審判するのかというと、第何号の虎鮫がいかに猛烈に船底をかじったか、また、スクリューを砕いたかということを高速度撮影された実物映画によって逐一選抜記録するのであった。それはなかなか厳重をきわめたものであって、あとで百五十人の係員の作製した結果を平均するからして、その成績はしごく公平に現われた。
成績がわかると、鮫どもはわずかに一頭ずつ通れるキャナルへ導かれて、背中に書いた番号によって成績表をつくり、その成績に応じて人間の手や足や、または小指などを、褒美として口の中に抛げこんでやるのであった。
虎鮫どもには、それがどんなにか娯しみだったかしれないのである。褒美の肉をもらって、彼らはいたく満足した。そして彼らが再び腹の減ったと思う頃に、また今のような訓練をくりかえし行うのであった。
鮫どもが腹をすかせたときは、すぐそれと分った。そうなると鮫どもは一刻も早く、あのガガーン、ガガーンという進撃の銅鑼《どら》の音を聞きたいものをと、その銅鑼《どら》のぶら下げてある弁天島のまわりを押すな押すなと蝟集して、ひどいときには島の上まで虎鮫がのぼってくることさえあった。
「おい、どうじゃな」
と、楊《ヤン》博士は、若き歯科医務長にたずねた。
「ああ楊《ヤン》閣下、いやもうたいへんな発達ぶりです。今朝の診察によりますと、全体的に見まして、鮫の歯の硬さは、二倍半も強くなりました。なかには四倍五倍という恐ろしい硬度をもっているものもあります。もう実戦に使いましても大丈夫でしょう」
「うむ、そうか」
楊《ヤン》博士はわが意を得たりというふうに、頷いた。博士は、さらに肥った大男をよんだ。
「おお黄生理学博士。どうです、このごろの虎鮫の反射度は?」
「ああ閣下、それならもう百パーセントだとお答えいたします。ガガーン、ガガーンと銅鑼《どら》を聞かせますと、彼らの恐ろしき牙は、ただちにきりきりとおっ立ち、歯齦《はぐき》のあたりから鋼鉄を熔かす性質のある唾液が泉のように湧いてくるのであります」
と、黄博士は、虎鮫の条件反射について詳細なる報告をなした。
「そうか、ようし、では訓練はこれくらいでやめて、あとはいよいよ軍船にむかって実戦をやらすばかりだ」
楊《ヤン》博士は揚々と、条件反射をやる虎鮫七千頭をひきつれ、またもとの赤湾を前にのぞむ屏風岩に帰ってきた。
大襲撃の銅鑼《どら》が鳴ったのは、その次の日の明け方であった。
それは近代海戦史上空前の大激戦であった。わずか三十九分のうちに、赤湾の中に游よくしていた軍船百七十隻は、一隻のこらず、船底に大孔をあけられ、スクリューをかじりきられて、海底深く沈んでしまった。
楊《ヤン》博士は、いまや得意満面、手の舞い足の踏むところを知らなかった。さっそく祝宴を命じたところへ、猛印首都の軍政府委員長チャンスカヤ某から、電報がついた。さだめし祝電であろうと思って読んでみると、
「貴様の撃沈したのは、あれはみな、わが海軍の精鋭軍船である。貴様のために、わが政府は、ついに最後の海軍をことごとく失ってしまった。なんという大莫迦者であろう。ただちに貴様討伐隊をさしむけるから、そこを動くな!」
という意外な叱り状であった。しかし楊《ヤン》博士は、その電文を読んでも別に悲観の模様もなく、むしろはるかにチャンスカヤ某のために憐愍の情を催したくらいであった。
「軍用鮫は役に立って、みごとに軍船百七十隻を撃滅したではないか。まずその恐るべき、偉大な効果を語らずして、その軍船の国籍を論ずるなんて、きゃつも科学のわからんやつじゃ」
そういって博士は、科学者でない人間との交際《つきあい》のまったくつらいことをなげいたことであった。
底本:「十八時の音楽浴」早川文庫、早川書房
1976(昭和51)年1月15日発行
1990(平成2)年4月30日2刷
※混在する「大師」と「大帥」は、底本通りとした。
入力:大野晋
校正:福地博文
2000年3月8日公開
2006年7月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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