博士はそれが、今暁この屏風岩の上空をとんでいった東洋人爆撃機からの落し物であろうとは、気がつくよしもなかったし、それが出征将士慰問の前線文庫の一冊である新品月遅れ雑誌であったことをも知るよしもなかった。そして彼の最大の不幸は、なにげなくその誌面をひらいたときに、中篇読切小説として「軍用鼠」なる見出しと、青年作家が恐ろしい形相をして、大きな鼠の顔を凸レンズの中に見つめているという怪奇な図柄とに、ぐっと呼いよせられたことであった。
 その「軍用鼠」なる小説は、結局全体として居睡り半分に書いたような支離滅裂なものであったけれど、なにか指摘してある科学的ヒントにおいては傾聴すべきものが多々あったのである。なかんずく著者のコンクルージョンであった。“――軍用鳩あり、軍用犬あり。豈《あに》、それ軍用鼠なくして可ならんや!”
 これを読んだ楊《ヤン》博士は、団扇のような掌をうち、近眼鏡をぽろりと膝のうえに落として、
「うーむ、これあるかな、東洋ペン鬼の言や」
 と、はるかに東天を仰いで、三拝九拝した。これは楊《ヤン》博士が気違いになったのではなくして、いまこそ彼は、軍船撃滅法発見のキッカケをつくる有力なるキャタライザーにめぐりあったことを喜ぶのあまり、つまり驚喜乱舞という狂燥発作に陥ったのであった。
 楊《ヤン》博士は、雑誌を胸にいだき、巌頭に立って右手を高く天空にあげながら叫んだことであった。いわく、
「ああ偉大なる東洋鬼。されど吾れはさらに偉大なり。君が卓越したるアイデアに、吾れはさらに爆弾的ヌー・アイデアを加えん。“軍用鳩あり、軍用犬あり、軍用鼠あり。しかして豈《あに》それまた軍用鮫なくして、どうしてどうして可ならん哉”と」
 唐人の寝言は、このへんで終結した。
 彼は釣糸も雑誌も弁当も煙管も、そこへ置きっぱなしにしたまま、自転車にひらりとうちまたがると、ペダルかき鳴らし、広東《カントン》郵便局まで電信をうつために力走また力走をつづけるのであった。
 早くもそれから一週間の日がもろに過ぎた。海戦科学研究所大師、楊《ヤン》博士は、いま臨海練魚場の巌頭に立って、波立つ水面を、じっと見つめているのだった。
「どうもまだ、これでは員数が不足だ。もうあと、少なくとも三千頭は集めたいものじゃ。さっそく政府に請求しよう」
 例の桃葉湯のような色をした海面には、やがて広東《カントン》料理になるべく宿命づけられているとも知らず、稜々たる三角形の鰭を水面に高くあらわして、近海産の世にも恐ろしきタイガー・シャーク、つまり短く書くと虎鮫が、幾百頭幾千頭と知らず、溌刺として波を切り沫をあげて猛烈なる集団運動をやっているところは、とても人間業とは見えぬげに勇ましき光景であった。
「もし大帥閣下、馮副官からの無電がまいりました」
 と、蒋秘書官が、楊《ヤン》博士の長い袖を引いた。
「なんだ、なにごとか」
「電文によりますと、どうもトーキーのフィルムをそんなにじゃんじゃん消費せられては困るというのです。目下輸入が杜絶していて、あともういくらもストックがないから、フィルムを使うのをやめてくれとのことです」
「な、なんだ。フィルムを消費するのをやめろというのか。怪々奇々なる言かな。吾が輩は政府依嘱の仕事をやるについて、必要だから使っているのだ。フィルムのことは、こっちで心配すべき筋合いではない。よろしくそっちのフィルム係を督戦したまえと、すぐに電信をうってやりたまえ。じ、実に手前勝手なことをいってくる政府だ」
 と、楊《ヤン》博士はかんかんの態である。
 それと入れかわりに、訓練部長が、準備のできたことを知らせてきた。
「楊《ヤン》閣下、これからすぐ、第七十七回目の練魚がやれます」
「よおし、ではそっちへゆこう」
 楊《ヤン》博士は、のそりのそりと練魚司令部へ足をはこんだ。そこは海岸の中へずっとつきだした弁天島のような小嶼《こじま》があった。教官連をはじめ、それぞれの係員はそれぞれの配置について、いまや命令の下るのを待つばかりになっていた。
 楊《ヤン》博士は、水うち際の適当なる場所につっ立った。
「では、始めるぞ」
「みんないいか、用意!」
 海面には虎鮫が、将棋の駒のようにずらりと鼻をならべて左右の戦友をピントの合わない眼玉で眺めている。
「いいねえ。では――はいッ、キャメラ!」
 ――という具合になって来たが、練魚の最初においては、トーキー撮影とたいしたかわりがない。しかし、そのあとは断然ちがってくるのであった。
 ガガーン、ガガーン。
 それが虎鮫どもへの信号であった。鮫どもはいっせいにスタート・ラインをはなれて前方へわれ先へとダッシュした。ものすごいスパートである。鮫膚と鮫膚とは火のようにすれあい鰭と鰭との叩きあいには水は真白な飛沫となって奔騰し、あるい
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