、縛って……突き出して下さい」
「叱《し》ッ。――」と女は目顔で叱って、「……誰かに悟られると、大変なことになってよ」
「えッ。――」
 僕は女の方をふりかえった。
「さあ、ここにいては危い――早くお逃げなさい」
「ああ、貴女は僕の敵ではなかったのですか」
「もちろんよ」と女はニッコリと笑い「でもこの島のどこへ逃げても危いわネ。じゃあ隠れるのに一番いいところを教えてあげるわネ」
「え、隠れどころ?」
「この向うの道をドンドン南へとってゆくと、山の上に昇っちまうのよ。そこに大きなお寺があるの。そこは蓮照寺《れんしょうじ》という尼寺《あまでら》なのよ。そこは女人の外は禁制なんだけれど、裏門から忍びこんでごらんなさい。そして鐘つき堂のある丘をのぼると、そこに小さな庵室《あんしつ》があってよ。そこに秀蓮尼《しゅうれんに》という尼《あま》さんが棲《す》んでいるから、その人にわけを言って匿《かく》まってもらうといいわ。分って?」
「ああ、分りました。ありがとう、ありがとう、僕はどんなにして貴方にお礼をしたらいいでしょう」
「お礼ですって? ホホホホ。生命をとられかけていて、お礼はないわよ。……それよりこの手拭で鉢巻をなさいよ。貴方の目印のその額の傷を隠すんだわ。そして一刻も早く、教えてあげたところへ行ったらいいじゃないの」
「じゃあ行きます。……最後に、ぜひ聞かせて下さい。生命の恩人である貴方のお名前を……」
「あたしの名前? 名前なんか聞いてどうするの……でも教えてあげましょうか。島田髷《しまだまげ》の女――よ」
 女は自ら、つと軒下を出ていった。
 僕は呆然《ぼうぜん》とその不思議な若い女のあとを見送っていたが、やがて吾れにかえると島田髷の女から貰った手拭で鉢巻をし、生命をかけた危ない目印を隠した。そして続いてその軒下を出ると、スルリと裏通へ滑りこんだ。
 裏通は島の人たちで異様な賑いを呈していた。しかしあっちで一団、こっちで一団と、彼等はなにかヒソヒソと話しあっていた。それは脱走者である僕に懸けられた莫大な賞金のことに違いなかった。
 住民の中には、僕の方を胡散《うさん》くさそうに、ふりかえる者もあった。しかし僕は逸早《いちはや》く病院の寝衣を脱ぎすて、学生服に向う鉢巻という扮装になっていたので、そんなに深く咎《とが》められずにすんだ。
「蓮照寺へ――」
 僕は前後左右きびしく警戒しながら、おおよその見当をつけて、南の方へズンズン歩いていった。
 隆魔山《こうまさん》――という、島で有名な山のことは僕は一度来て知っていた。見覚えのある蓮照寺の垣根の前にヒョックリ出たときは、夢のように嬉しかった。
「裏門は何処だろう?」
 尼寺の垣根は、まるで小型の万里の長城のように、どこまでも続いていた。どこが裏門やら探すのに骨が折れたが、とにかく門が見つかったものだから、そこへ飛びこんだ。
 尼寺の庭は文字どおり闇黒だった。どこに鐘楼《しょうろう》があるのやら、径《みち》があるのやら、見当がつかなかった。――僕は棒切れを一本拾って、それを振りまわしながら、寺院の庭を歩きまわった。三十分ぐらいもグルグル歩きまわった末、祭りの灯でほの明るい空を大きな鐘楼の甍《いらか》が抜き絵のようにクッキリ浮かんでいるのを発見して、僕は歓喜した。
 鐘楼のかげの庵室を探しあてることなどは、もはやさしたる苦労ではなかった。庵室の障子には熟しきった梅の実のように、真黄色な灯がうつっていた。
 庵室の扉に、ソッと手をかけたとき、
「誰方《どなた》?」
 という低い声が、うちから聞こえた。
「……」僕は思わず手を放して黙したが、
「これは街で、庵主《あんじゅ》さまのお名前を教えられてきたものでございます」
「いま明けて進ぜます。しばらく……」
 うちらに微《かす》かな衣ずれの音があって、やがて扉のかけがねがコトリと音をたて、そして入口が静かに開かれた。
「わが名を教えられた、と。まずお入りになって事情を話してきかせて下さい」
 尼僧は僕が男子であるのに気がつかないような様子で、なんの逡巡《しゅんじゅん》もなく上へ招じ入れたのだった。
 土間の内に、四畳半ほどの庵室が二つあり、その奥まった室には、床に弥陀如来《みだにょらい》が安置されてあって油入りの燭台が二基。杏色の灯がチロチロと燃えていた。その微かな光の前に秀蓮尼と僕とは向いあった。――尼僧というが、低い声音に似ず、庵主は意外にもまだ年齢若い女だった。剃《そ》りたての綺麗な頭に、燭台の灯がうつって、チラチラと動いた。
「実は僕は、さきほど病院を脱走した者でございまして……」と、僕は額に巻いた手拭を解きながら、身の上に関するすべての物語を喋り、そしてサイレン鳴る街の軒下で、一人の美しい島田髷に振袖の着物をきた女に庵主さんのことを教えられきた旨を告げたのだった。そして、
「……どうか、この暴逆なる[#「暴逆なる」はママ]手より、しばらくお匿《かく》まい下さいまし」
 と、両手をついて頭を下げた。
「それはまことにお気の毒なお身の上」と尼僧は水のように静かに云った。「おもとめによりお匿まい申しましょうから、お気強く遊ばせ。しかしながら、わたくしにも迷惑のかかることゆえ、いかなることがありましょうとも、わが許しなくてはこの庵室より外に出ることは愚《おろ》か、お顔を出すことも罷《まか》りなりませぬぞ」
「ああ、忝《かたじ》けのうございます。匿まって下さるのだったら、なんで庵主さまのおいいつけに背きましょうか、どうも有難うございます」
 僕は感激のあまり、畳の上へほろほろ泪《なみだ》を落した。
 尼僧は僕に一杯の白湯をふるまったあとで、
「ではもうお疲れでしょうから、お睡りなさいませ。但し他所から衾をとってくることもなりませぬからわたくしと一つ寝となりますが、よろしゅうございますか」
「一つ寝?」僕は愕《おどろ》いて聞きかえした。「いえ、僕は寝なくてもいいのです」
 尼僧はそれには返事もせず、しとやかに立ちあがると、戸棚の中をあけて、次の部屋に床をのべると枕を一つ、左によせて置いた。それからなおも戸棚の中を探していたが、一つの風呂敷を取出し、それに何物かを包んで、枕の形に作りあげた。そして寝床の右に、急造の枕を置いた。一つ臥床に並んだ二つの枕をみると、僕はなんだか顔が火のように熱くなった。
「あなたはこの仮り枕をお使いなされませ。では一刻も早く横になって、お疲れを直されるがよいでしょう。わたくしは暫く看経《かんきん》をいたして、あとで床に入りますから、どうぞお先へ……」
 僕は逡《ためら》った。尼僧にもせよ、相手は若い女であった。それが一つ床に臥すのはどんなものだろうか。
「お先へお臥しなされませ。――」
 尼僧はくりかえし、それを云った。――僕はさきほど匿まって下さるなら庵主のいいつけを必ず守るといった。この上、庵主の言葉に背いて、ここを出されるようになっては大変だと思った。それで遂に意を決して、先へ寝床に入った。看経が終るまで一時であろうが、その間だけでも睡り、尼僧が入って来たら起きようと心に決めた。
 僕は衣服を軽くして、寝床に入った。尼僧は弥陀如来の前に、明りをかきあげて、静かに経を読みだした。
 仮りの枕は、何が入っているのか、たいへんいい香がした。それはこの尼僧院には、およそ似つかしからぬ艶めいた香を漾《ただよ》わせるのだった。それとも若い女というものは、作らずしてこんな体臭をもっているのだろうか。そんなことを考えているとなかなか睡れなかった。睡るかわりに、変な夢をそれからそれへと見つづけていた。街の傍で始めてあった島田髷の女が出て来てニッコリ笑う。するとそれがいつの間にか尼僧のとりすました顔になる。すると横合いから森虎の憎々しい面がとびだす、母親が泣きながら森虎のあとを追う。すると病院の監守が、機関銃をもって追ってくる。三人の青年がそれに噛みつく。……そんな妖夢を追っているうちに、僕は疲労に負けて、いつの間にかグッスリ熟睡に落ちた。……


   鍵にまつわる秘密


 気がついてみると、お経の声がしている。ハッと思って、目をあけてみると、いつの間にか、障子に明るく陽がさしていた。
「しまった――」
 僕はこわごわ薄目を動かして、隣の枕を見た。それはズッシリと重い頭が永く載っていたらしく真中が抉《えぐ》ったように引込んでいた。僕は蒲団の中で、ソッと手を伸ばしてみた。
「あッ、いけない――」
 僕の身体の隣りには、たしかに人が寝たらしく生温かさが感じられた。――あの年若い尼僧は、たしかに僕の隣りに寝たに相違ない!
 僕が起きあがると、秀蓮尼は経をやめた。朝の挨拶をすると、尼僧は、
「昨夜はよくお寝みになられたようでしたナ」
 といって微かに笑った。
 作ってくれた朝飯の膳に向いあったとき、僕は庵主が、昨夜陰影の強い灯影でみたよりも、更に年若いのに愕《おどろ》いた。よくは分らないけれど、ひょっとすると僕より一つ二つ年齢が下なのかもしれない。そしてまた昨夜見たよりも、遥かに目鼻立ちも整い美しい尼僧だった。
「どこかで見たような人だが……」
 僕は円らな頭をもった秀蓮尼を眺めたのだったが、そこまで出かかっているくせに、どうも思い出せなかった。
 朝のうちは秀蓮尼は外へ出たり、また庵へ入ったりなかなか忙しそうに見えた。僕は外を覗くことも許されなかったので、弥陀如来の前でゴロリと寝ころび、昨日に変わる吾が棲居《すまい》のことやら、これから先、母のところを訪ねたものか、それともこのまま黄風島を脱けだしたものだろうかなどと、いろいろなことを考えくらした。
 その考えもつきたころ、僕は、
「ああ、そうだ。……忘れていたぞ、恋人の鍵を!」
 恋人の横顔を刻んである鍵――それをトンと忘れていたのだった。僕はそれを膚につけていた。それを取出して、じっとその横顔を眺めた。鍵の握り輪の中の女は、ウェーブをしたような髪を結っていた。すんなりと伸びた鼻すじ。小さい眉、ことにつぶらな下唇、そして形のいい可愛い頤……
「もし、北川さん」
 わが名を呼ぶこえに、目覚めてみると、傍に秀蓮尼が座っていた。いつの間に庵主は帰ってきたのか気がつかなかった。僕はいい気持になって、昼寝をしていたものらしい。
「やあこれは……」
 僕はガバと起き直るなり、頭を掻《か》いた。秀蓮尼の顔を見ると、これは愕いた。なにごとが起ったのであろう。彼女の顔色は紙よりも白かった。――
「北川さん。この鍵は貴方のですの」
「そうです、僕のですよ」
「どこで手に入れなさいまして?」
「それは、――」
 といったが、秀蓮尼は眼を輝かし、いまにも飛び掛ろうという勢を示していた。これは思いがけない大事件になった。何が俄《にわ》かに仏《ほとけ》のような彼女を、セパート犬のように緊張させたのかまったく彼女は別人のごとくになった。
「それは、森おじさんの戸棚の中で拾ったものですよ」
「森おじさんというと……」
「ゆうべお話した森虎造のことですよ。僕の母親が、いま泊っている筈《はず》の家です」
「ああ、そうですか。……貴方は森虎造の戸棚の中に、これと一緒にあった美しい貼り交ぜをしたこれ位《ぐらい》の函を見ませんでした?」
 といって尼は、弁当函ほどの箱の大きさを手で示した。彼女の云うので思い出したが、僕が森虎の戸棚探しを始めて間もない頃、一つのトランクの中に、いま話のような美しい小函を見つけたことがあった。それは玩具のように美しかったので覚えている。手にとりあげてみると、たいへん軽かった。開けようとしたが錠がかかっていた。耳のところで振ってみると、コソコソと微《かす》かな音がした。大したものも入って居らぬらしく、それにそのときは鍵が見つからなかったので、そのまま元のようにして置いた。その後、そのトランクに錠がかかって、もう見られなくなった。――僕は尼がその函のことを云っているのだと思った。しかしそれにしても、何故そんな函のことを隆魔山《こうまさん》の尼僧が知っているのだろう?
 僕が黙っ
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