二時間はかかるのであった。
 翌日は相良十吉に報告を約束した日だった。その朝も私は例のごとく十時に起きて、二三の訪客に接した。正午を過ぎると研究室に入って夕方まで机上執務《デスク・ワーク》を続けた。
 そこへ中央天文台にやってある根賀地|囃《はやす》が一枚の天文写真を持って入って来た。その写真は私の気に入らなかった。今度は相良十吉を遠視電話でよび出すと、彼に六時頃新宿の十字路街で私の自動車を待っていて呉れるように伝えた。彼の顔色は前日に増して悪かった。そのくせ一層大きくなったように見える血走った両眼《りょうがん》を、クワッと見ひらいて私の方を凝視《ぎょうし》しているのだった。私の顔付から何事かを読みとろうというような風だった。
 間もなく私と根賀地とは、目白の坂を下りて早稲田の方へ走る自動車の中に在った。山吹の里公園の小暗《こぐら》い繁みの中に入ったとき、思いがけなくドカンという銃声と共に、ウィンドー・グラスが粉微塵《こなみじん》にくだけちった。私はウムと左腕を抑《おさ》えた。咄嗟《とっさ》に自動車はヘッドライトと共に右へ急角度に曲った。ヘッドライトに浮び上った人影があった。逃げるかと思いの外、ヒラリと運転台につかまった。根賀地が横手の扉《ドア》をいちはやく開いて身体を車外にのり出すと怪漢《かいかん》は猶《なお》も二三発、撃ち出した。かまわずスピードを出そうとする運転手に、
「ストップだッ」
 と命令した。でも車体は尚|半丁《はんちょう》ほど前進した。車外へ出てみると、後方に根賀地と怪漢との乱闘しているらしい姿を認めた。駈けつける途中に、一方が仆《たお》れた。と思う間もなく正面から大きい身体がぶつかって来て私はもうすこしで胸板《むないた》をうちこわされるところであった。敵だ!
 不運にも私の背後から駈け出して来た運転手が一撃のもとに仆された。相手は中々|手強《てごわ》い。私の左腕はちぎれるように痛みを増した。急場《きゅうば》だ、ヒラリと二度目に怪漢の腕をさけると、三度目には身を沈め、下から相手の脾腹《ひばら》を突き上げた。ウームと恐ろしい唸声《うなりごえ》がして私の目の前に大きな身体がドサリとぶったおれた。
 やっと起き上って来た根賀地と運転手とが半ばきまりわる気に怪漢をグルグル捲《ま》きにしばった。
「先生お怪我は? してこいつは何奴《なにやつ》でしょう」
「わからないな。ともあれ約束の時間が来る。運転手! お前はこいつを連れて事務所へかえれ。わしと根賀地とは公園を出たところでタキシを呼ぶから……。お客様は丁重《ていちょう》に扱うんだぞ」
 そう言いつけて車を返すと、私達二人は大急ぎで公園を駈けぬけて行った。
「先生、彼奴は昨日お話の松井田じゃありませんか」
「松井田にしちゃ年が若い。まだ二十五六の小僧だったぞ」
「エエ、そうですかい」
 根賀地は走り乍ら苦《にが》わらいをしているらしかった。
「じゃ松井田の手先ですかい」
「何とも言えないね」
 私達は運よくタキシーを捕《つかま》えることが出来た。
「アッ。血が……。先生」
 自動車の中で根賀地は私の左腕から迸《ほとばし》る血潮に驚きの目を瞠《みは》った。
 新宿へ出る迄に傷の手当を終り、衣服も一寸見ては血痕《けっこん》を発見しえないように整《ととの》えることができた。十字路で約束通り相良十吉を拾い上げるようにして車内へ入れると、運転手に命じて灯火《あかり》を滅《け》させ急速力を出させた。行手《ゆくて》は烏山《からすやま》の中央天文台、暗闇の中に夜光時計は七時二十分前を示す。今宵《こよい》は十四日の明るい月に恵まれる筈だが、それはもうあと五分間のちのこと。そして三十分程ちらりちらりと月の顔を見ることが出来たと思うと、あとは又元のように密雲《みつうん》に蔽われてしまう筈である。月が顔を出している三十分の間に私は仕事をやらねばならない。タキシーの運転手は探偵章を見せられてからは必死にスピードを上げている。
 はたして五分後に月が出た。あと十分すると前方にあたって烏山の天文台の丸いドームが月光の下に白く浮かび出でた。天を摩《ま》するような無線装置のポールが四本、くっきりと目の前に聳《そび》え立っているのであった。
「おお、こりゃ天文台だ」
 と相良が低く叫んだ。私達は黙っていた。
 自動車が庁舎の前のゆるい勾配《こうばい》を一気に駈け上ると、根賀地が第一番に広場の砂利《ざり》の上に降り立った。入口にピタリと身体をつけていたが、やがて大きな鉄扉《てっぴ》が、地鳴りのような怪音と共に、静かに左右へ開いた。私達三人は滑るようにして内へ駈けこんだ。
「天文台のドームの中に入っただけで、気が変になるような気がする」と言った人がある。全くドームの中の鬼気《きき》人に迫る物凄《ものすさま》じさはドームへ入ったことのある者のみが、知り能《あた》うところの実感だ。そこには恐しく背の高い半球状の天井《てんじょう》がある。天井の壁も鼠色にぬりつぶされている。二百畳敷もあろうかと思われる円形の土間の中央には、奇怪なプリズム形をした大望遠鏡が斜に天の一角を睨《にら》んでいる。傍《かたわ》らのハンドルを廻すとカラカラと音がして、球形の天井が徐々に左右へ割れ、月光が魔法使いの眼光《がんこう》でもあるかのように鋭くさしこむ。今一つのハンドルを廻すと、囂々《ごうごう》たる音響と共に、この大きな半球型の天井が徐々にまわり始めるのだった。
「先生、あと五分しかありません」
 襲撃事件でわれ等は貴重なる時間を空費《くうひ》し過ぎた。
「それでは。――相良さん。御依頼の件の御報告をいたします。口で申上げるよりも、根賀地研究員のおさしず通りにやって下さるのがいいと思います。じゃ根賀地君。順序通りにやって下さい」
 先程から相良十吉はワナワナと慄《ふる》えているのだった。彼は冷静と放胆《ほうたん》とを呼びもどそうと、懸命に頭を打ちふり、頤《あご》をなでているのだった。
「相良さん、これから覗《のぞ》いて下さい。これは一番倍率の低い望遠鏡で見た月の表面です」
 相良十吉は、おそるおそる前へ出て、大望遠鏡の主体についた小さい副望遠鏡をのぞきこむのであった。
「では、こんどはこちらを……。少し倍率が大きくなりました。カルレムエ山脈が、少し大きく見えるでしょう。それは更にこちらの方を御覧になるともっと大きくなります。
 それでは、いよいよメーンの望遠鏡です。カルレムエ山脈第一の高峰ウルムナリ山巓《さんてん》が見えるでしょう。こんなに大きく見える望遠鏡を持っているのはこの中央天文台だけです。有名なウィルスン天文台の一番大きい望遠鏡でもこの千分の一しか出ません」
 相良十吉は望遠鏡に吸いついたようになっていた。月が隠れるまでにもうあと二分|弱《じゃく》。
「こちらに把手《クランプ》があります。これをねじると、ピントが月の表面からだんだんと地球の方へ近よって来ます。隕石《いんせき》が飛んでいるのが見えるでしょう。これで二千キロメートルだけ近くなりました。この調子でかえて行きますよ。見えますか。さて、気をつけていて下さい。左下の部分に現われて来るものに……」
 キャーッと魂切《たまぎ》る悲鳴が起った。死人《しにん》の胸のようなドームの壁体《へきたい》がユラユラと振動してウワンウワンウワンと奇怪な唸り音がそれに応じたようであった。支《ささ》える遑《いとま》もなく相良十吉は気を失って、うしろにどうと仆れてしまった。
 私は直ぐさま眼をレンズにつけたが、惜しむや数秒のちがいで、かねて計算通りに襲《おそ》い来った密雲で、視野はすっかり閉じられてしまった。
「とうとうあれを見たのですよ」
 根賀地が低くささやいた。
 相良の身体を抱きおこして、ウィスキーを呑ませたり、名をよんでみたりした。五分程して彼は、うっすら眼を開いたが、ひどく元気がなかった。
「松井田!」
 聞きとれ難《にく》いほど低い声で、こう相良は唸った。私はポケットから調書をとり出すと彼の耳のところで、しっかりした言調《ごちょう》を選んでよみ聞かせてやった。
「松井田は世人を欺《あざむ》いていた。たしかに生きている。だがそれには無理ならぬ事情もあるのだ。風間操縦士が一周機の運用能率上、松井田の下機を突如命じた。それは広島近くの出来事だった。月影さえない真暗闇《まっくらやみ》の中だった。
 松井田はしばらく風間と争論《そうろん》した。この飛行を成功させるという点に於て、又風間の説くところの最大能率発揮のため急角度に高空へ昇るのにも、又、飛行機のバランス復旧《ふっきゅう》をはかる上に於ても、搭乗者が一人減ることが大変好ましいことも肯《うなず》けた。いろいろ前々からの事情もあって、出発のときには松井田の同乗を断れなかった。で、兎《と》も角《かく》もここで下りてほしい。成功した上はあとで君のために説明をつける。失敗しても一定時日のあとで君が釈明《しゃくめい》して呉れればよいではないか。落下傘《らっかさん》は用意してある。急いで下りてくれ、とのことだった。
 松井田にもいろいろと言い分もあり、それでは困る事情もあったが、風間への恩義と友情とそれから真理のため、その請《こい》をきき入れねばならなかった。そこで最後の握手をすると松風号からヒラリと飛び下りた。落下傘はうまくひらいた。一時間あまりかかって下りたところは、島根県のある赤禿げ山の顛《いただ》きだった。彼は少量の携帯食糧に飢《うえ》を凌《しの》いだが、襲い来った山上の寒気に我慢が出来なかった。仕方なく落下傘を少しずつやぶっては燃料にした。
 松井田の姿は軈《やが》てこっそり麓村《ふもとむら》に現われた。それから間もなく、一周機の失跡《しっせき》も知った。彼は名のって出るべきでありながら一向それをしようとはしなかった。松井田は極く若い青年時代にある事情から殺人罪を犯している身の上だった。いま名乗って出れば、松風号の失跡について、なにからなにまでうさんくさく調べられることがわかっていた。かれは自分の身の上までの露見《ろけん》を恐れたのだ。それからというものは、彼はずっと島根県にブラブラしていた。それがこの頃、東京へ出て来たのには訳がある。彼は一つの疑問を持っていた……」
 ここまで私が喋《しゃべ》りつづけると、いきなり相良が金切声《かなきりごえ》をあげて叫んだことである。
「あとは判った。イヤなにもかも判ったです。その辺に松井田が現われたら、彼に言って下さい。お前は大馬鹿者だ、トナ」
 猶も相良は口の中でブツブツ呟《つぶや》いていた。
 自動車が三人を乗せて新宿まで来たときに、私一人は降り、根賀地に相良を自宅まで送りとどけるように命じたのであった。新宿街のペイブメントには、流石《さすが》に遊歩者《ゆうほしゃ》の姿も見当らず、夜はいたくも更《ふ》けていた。

 次の日の朝であった。例によって私は午前十時に目を醒《さ》ました。窓を開いて見ると珍《めず》らしく快晴だった。ベルを鳴らすと、執事の矢口と、根賀地が入って来た。
「先生、あの若僧《わかぞう》はどうしましょう。先生の傷はどうですか」
 と根賀地が尋《たず》ねた。私は左腕を少し曲げてみたが、針でさすような疼痛《とうつう》につきあたった。
「昨夜《ゆうべ》、あれから手術をやって貰ったのでもう心配はない。それからあの若先生だが、もう三十分もしたらこっちへ来て貰うのだナ。昨夜《ゆうべ》相良氏はどうした?」
「あの男は、今朝も例のとおり、会社へ出かけてゆきましたよ。青い顔はしていましたが不思議に元気でしたよ。昨夜《ゆうべ》の容子《ようす》じゃ、自殺するかナ、と思いましたが、今朝の塩梅《あんばい》じゃ、相良十吉少々気が変なようですね」
「なにか手に持っていたか」
「近頃になく持ちものが多いようでしたよ。手さげ鞄《かばん》に小さい包が二つ」
 ここで私は黙り込んだ。不図《ふと》眼をあげると根賀地が常になく難しい面持をしていた。そして急に私を呼びかけたのである。
「先生。今度の事件ばかりは、僕に
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