柱のかげから、松井田が現われた。今度は意外にも立ち消えはせず、彼の方へ向って、ノソノソ歩いて来るので、彼は懸命の勇気をふるって、
「松井田君! おい、松井田君じゃないか?」
 と声をかけたのだが、その怪人物は、一言も発しないで、相良十吉の側をすれちがうと、海辺の方へヨロヨロと歩み去るのであった。
 次の日は、夜に入《い》って、彼が月島の自宅から、銭湯《せんとう》に行ってのかえりに、小橋《こばし》の袂《たもと》から、いきなり飛び出して来た。
 相良十吉は思った。松井田は気が変になっているに違いないと。それにしては余りに穏《おだや》かな行動だった――彼の目の前にずかずか現われて、気味をわるがらせる外は……。
 又その次の日からは相良十吉の家の周りに現われるようになった。いよいよ気味が悪くなったので、妻にこんな人物を見かけなかったかと聞いたが、妻は知らぬと答えた。お手伝いさんや娘の真弓子《まゆみこ》も知らぬと言った。松井田を見るのは相良自身だけらしい。
 昨夜《ゆうべ》は寝室のカーテンの蔭からのぞき込んでいた。いやらしい頬の傷跡をわざと見せつけたように思われた。
 相良十吉は、この頃になって、自分の生命《せいめい》が松井田に脅《おど》されているのを感じないわけには行かなかった。彼の懐《ふところ》にしのばせた短刀には、既に松風号の操縦士、風間真人《かざままなんど》の血潮がしみついているのではなかろうか。
 松井田が生きているとすれば、松風号はどうしたろう。風間操縦士は生きているのか? 風間と自分とは殊に深い友人だった。松風号の行方不明になった時も、あの位方々を探し廻ったほどだった。松井田がたとえ気が変になっているとしても、せめては風間真人の消息だけでも何とかして知りたいものである、と相良は述べたてた。
 私は訊《き》いてみた。
「じゃ何故、彼の腕をとって、貴方のお家へ連れこまないのですか」
「あいつは馬鹿力を持っています。彼奴《きゃつ》の腕にさわることができても、それこそ工場のベルトに触れでもしたかのようにイヤという程、跳返《はねかえ》されるばかりです」
「官憲の手を借りてはどうです」
「それも考えないじゃありません。が、先生。あの有名な事件の人物が二十年後の今日、発見されたことがわかったが最後、可哀想な松井田は警官と新聞記者とに殺到されて、あの男の頭はどこまで変になるか知
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