ときながら、あたしのことを掴《つかま》えてモルモットの話なんだからねえ」
 お妻は、いい機嫌で室を出て行った。
「お父さん、今日はお芽出《めで》とう御座《ござ》います」
「うん、ありがとう」
「きょうは、店を頼んで、三人一緒に、早く出てきました」
「おお、そうかい」
「久しぶりに、モルモットが皆集まって賑《にぎや》かに、御馳走になります」
「うん、――」
 長造は何か別のことを考えている様子だった。黄一郎には、直ぐそれが判ったのだった。
「もっとも清二はいませんけれど……彼奴《あいつ》なにか便《たよ》りを寄越《よこ》しましたか」
 清二《せいじ》は、黄一郎の直ぐの弟だった。その下が、ゴム工場へ勤めている弦三《げんぞう》で今年が徴兵《ちょうへい》適齢《てきれい》。その下に、みどりと紅子《べにこ》という姉妹があって、末《すえ》の素六《そろく》は、やっと十五歳の中学三年生だった。
「清二のやつ、一週間ほど前に珍らしく横須賀軍港《よこすかぐんこう》から、手紙なんぞよこしやがった」
「ほう、そりゃ感心だな。どうです、元気はいい様《よう》でしたか」
「別に心配はないようだ。今度、演習《えんしゅう》に出かけると云った。ばあさんには、なんだか、軍艦のついた帛紗《ふくさ》をよこし、皆で喰えと云って、錨《いかり》せんべいの、でかい缶を送って来たので驚いたよ。いずれ後で出してくるだろう」
「そりゃいよいよ感心ですね」
「うちのばあさんは、これは清二にしちゃ変だと云って泪《なみだ》ぐむし、みどりはみどりで、どうも気味がわるくて喰べられないというしサ、わしゃ、呶鳴《どな》りつけてやった。折角《せっかく》買ってよこしたのに喜んでもやらねえと云ってナ」
「なるほど、多少変ですかね」
「尤《もっと》も、紅子と素六とは、清《せい》兄さんも話せるようになった、だがこれは日頃の罪滅《つみほろ》ぼしの心算《つもり》なんだろう、なんて減《へ》らず口《ぐち》を叩きながら、盛んにポリポリやってたようだ」
「清二は乱暴なところがあるが、根はやさしい男ですよ」
「そうかな、お前もそう思うかい。だが潜水艦乗りを志願するようなところは、無茶じゃないかい。後で聞くと、飛行機乗りと潜水艦乗りとは、お嫁の来手《きて》がない両大関《りょうおおぜき》で、このごろは飛行機乗りは安全だという評判で大分いいそうだが、潜水艦のほうは、ますます悪いという話だよ」
「それほどでも無いでしょう。ことに清二の乗っているのは、潜水艦の中でも最新式の伊号《いごう》一〇一というやつで、太平洋を二回往復ができるそうだから、心配はいりませんよ」
「だが、水の中に潜っていることは、同じだろう。危いことも同じだよ」
 そこへ廊下をバタバタ駈けてくる跫音《あしおと》が聞こえてきた。ヒョックリ真ンまるい顔を出したのは中学生の素六だった。
「お父様も、兄ちゃんも、あっちへ来て下さいって、御膳《おぜん》ができたからサ」
「そうか、じゃお父様、参りましょう」黄一郎は、腰を起して、父親を促《うなが》した。
「うン、――よっこらしょい」と長造は煙管《きせる》をポンと一つ、長火鉢の角《かど》で叩くと、立ち上った。「今日は下町をぐるッと廻って大変だったよ。品物が動かんね、お前の方の店はどうだい」
「駄目ですね。新宿が近いのですが、よくありませんね。寧《むし》ろ甲府《こうふ》方面へ出ます。この鼻緒商売《はなおしょうばい》も、不景気知らずの昔とは、大分違って来たようですね」
「第一、この辺《へん》に問屋が多すぎるよ」
 長造は頤《あご》を左右《さゆう》にしゃくって、表通に鼻緒問屋《はなおどんや》の多いのを指摘《してき》した。この浅草の大河端《おおかわばた》の一角を占める花川戸《はなかわど》は、古くから下駄《げた》の鼻緒と爪革《つまかわ》の手工業を以て、日本全国に知られていた。殊《こと》に、東京好みの粋《いき》な鼻緒は断然《だんぜん》この花川戸でできるものに限られていた。鼻緒の下請負《したうけおい》は、同じ区内の今戸《いまど》とか橋場《はしば》あたりの隣町《となりまち》の、夥《おびただ》しい家庭工場で、芯《しん》を固めたり、麻縄《あさなわ》を通したり、その上から色彩さまざまの鞘《さや》になった鼻緒を被《かぶ》せたり、それが出来ると、真中から二つに折って前鼻緒《まえばなお》で締《し》め、それを百本ずつ集めて、前鼻緒を束《たば》ね、垂れ下った毛のような麻をとるために、火をつけて鳥渡《ちょっと》焼く――そうしたものを、問屋に持ちこむのだった。問屋には、数人の職人が居て、品物を選《え》り別《わ》けたり、特別のものを作ったりして、その上に商標《しょうひょう》のついた帯をつけ、重い束《たば》を天井に一杯釣り上げ、別に箱に収《おさ》めて積みあげるのだった。
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