隅《いちぐう》にしりもち[#「しりもち」に傍点]をつき、右足をおさえている。かれの顔には血の色がなかった。どうしたのだろう。誰に斬られたというのであろうか。
二重負傷事件
川内警部の両手は、鮮血《せんけつ》でまっ赤だった。
後からわかったことであるが、警部の傷はかれの右足のすこし上にある動脈《どうみゃく》が、するどい刃物《はもの》で、すぱりと斬《き》られているのだった。だから鮮血がふんすい[#「ふんすい」に傍点]のようにとびだしたわけである。
検事たちがかけつけて、みんなで応急手当をくわえた。
「どうしたんだ。どうしてそんなけが[#「けが」に傍点]をしたのかね」
検事はきいた。
「さあ、それがどうもわからんのですよ」
警部は顔をしかめて言った。
「こんなひどいけがを自分でする者はありませんよ。たしかに斬られたと思ったんですが……ところが、自分のまわりを見まわしても、誰も下手人《げしゅにん》らしい者がいない」
「じゃあ、やっぱり、けがだろう」
「けがじゃないですよ、検事さん」
と警部は承知しない。
「斬られたときはちゃんとわかりました。足へ何だかかたいものがあたり、それから火をおしつけたような熱さというか痛みというか、それを感じました。わたしはちょうど押入《おしい》れをあけて、中にあった木の箱を持ちあげていたので、すぐには足の方が見られなかったんです。箱をそこへおいて、そこから足の方を見て、ズボンをまくってみるとこれなんです。ズボンも、こんなにさけています。しかしこれは刃物がズボンの中から外へ向けていますね。外から刃物があたったんじゃないです」
さすがに警部だけあって、目のつけどころが正しい。しかしかれの足を斬ったという凶器はいったいどこにあるのか。
「その傷をこしらえた刃物《はもの》は見つかったかね」
検事がきいた。
「それがそれが……見つからないんです。おかしいですなあ」
「よく探してみたまえ。みんなも、手わけをしてさがしてみるんだ」
検事の命令で、捜査係官は警部のまわりを一生けんめいにしらべた。押入れ、ふとんの中、ふとんの下、かもい、床の間、つんである品物のかげ――みんなしらべてみたが、ナイフ一ちょう出てこなかった。
「へんだなあ。なんにもないがねえ」
「そんなに深い傷をこしらえるほどの品物もないしねえ……」
まったくふしぎなことである。
そのとき田口巡査が入ってきて、このありさまを見るとびっくりして、警部のそばへよってきた。
「どうなすったんですか」
「足を斬られたらしいんだが、その斬った兇器《きょうき》が見あたらないんだ」
「おお、田口君。きみはいったいどうしたんだ」
検事が、とんきょうな声を出した。
「どうしたとは、何が……」
田口はけげんな面持《おもも》ちである。
「きみの顔から血が垂《た》れている。痛くないのか。ほら、右のほおだ」
「えっ」
田口はおどろいて、手をほおにあてた。その手にはべっとり血がついていた。同僚《どうりょう》たちは、みんな見た。田口の顔の半分がまっ赤にそまったのを。
川内警部の負傷といい、今また田口の負傷といい、まるでいいあわせたように、同じ時に同じような傷ができるとは、どうしたわけであろうか。
「やっぱり、そうだ。するどい刃物でやられている。きみは、自分のほおを斬られたのに、そのとき気がつかなかったのかい」
「さっぱり気がつきませんでした」
「のんきだねえ、きみは……」
検事があきれ顔でそういったので、同僚たちも思わず笑った。
「今になって、ぴりぴりしますがねえ」
「いったい、どこで斬られたのかね」
「さあ、それが気がつきませんで……いやそうそう、思いだしました。さっき針目博士の室の戸口をはなれて廊下をこっちへ歩いてくるとちゅう、なんだか向うから飛んできたものがあるように思って、わたしはひょいと首を動かしてそれをよけたんですがね。しかし、なにも飛んでくる物を見なかったんです。ぱっと光ったような気がしたんですが、それだけのことです」
「きみは、どっちへ首をまげたのかい」
「左へ首をまげました」
「なるほど。首をまげなかったら、きみももっと深く顔に傷をこしらえていたかも知れないね。生命《いのち》びろいをしたのかもしれないぞ」
検事にそういわれて、田口巡査は首をちぢめた。
「しかしわたしは何者によって、こんなに斬られたんでしょうか」
「田口君。それは今一足おさきに斬られた川内警部も、おなじように首をひねっているんだ。これは大きな謎だ。だが、その謎は、この邸内《ていない》にあることだけはたしかだ」
と、長戸検事は重大なる決意を見せて、あたりを見まわした。
飛ぶ兇器《きょうき》か
ふたりの係官の負傷の手当はすんだ
川内警部はかなり出血したが、この家のお松とおしげが持ってきたブドー酒をのんだあと、すっかり元気をとりもどした。
「ああ、検事さん。かんじんの用むきを忘れていましたが、さっき針目の室まで行って博士に会い、あなたが会いたいといっていられることをつたえようとしたんですが、博士は入口のドアをあけもせず、“会ってもいいが、いま仕事で手がはなせないから、あとにしてくれ。あとからわたしの方で行くから”といって、さっぱりこっちの申し入れを聞き入れないんです」
「なるほど」
「わたしはいろいろ、ドアをへだててくりかえしいってみたんですが、博士はがんとして応じません。ろくに返事もしないのですからねえ、係官を侮辱《ぶじょく》していますよ」
田口警官は、ふんがいのようすであった。
「向うでいま会いたがらないのなら、会わないでもいいさ」
と検事はさすがにおちついていた。
「しかしこの怪事件について、博士はじぶんの上に疑惑《ぎわく》の黒雲《こくうん》を、呼びよせるようなことをしている」
「ねえ、長戸《ながと》さん」
と川内警部《かわうちけいぶ》がいった。
「わしはこの邸《やしき》にはふつうでない空気がただよっているし、そしてふつうでないからくり[#「からくり」に傍点]があるように思うんですがな……。で、例のするどい刃物を、何か音のしない弓かなんかで飛ばすような仕掛けがあるのではないでしょうか。博士というやつは、いろいろなからくり[#「からくり」に傍点]を作るのがじょうずですからね」
「きみの足首を斬った犯人が姿を見せないので、きみはからくり説へ転向したというわけか」
検事はやや苦笑した。
「どこか天じょう穴があるとか、壁の下の方に穴があるとかして、そこからぴゅーッと刃物のついた矢をうちだすのじゃないですかな。この家の博士なら、それくらいの仕掛けはできないこともありますまい」
「刃物を矢につけて飛ばすとは、きみも考えたものだ。しかしその刃物も、見あたらないじゃないか」
「いや、まだわれわれの探しかたがたりないのですよ。兇器がなくて、ぼくや田口がこんな傷をおうわけはないですからね」
そういっているところへ、戸口からのっそりとこの室内へはいってきた者があった。
近眼鏡《きんがんきょう》をかけた三十あまりの人物だった。あおい顔、ヨモギのような長髪《ちょうはつ》がばさばさとゆれている。下にはグリーンの背広服を着ているが、その上に薬品で焼け焦げのあるきたならしい白い実験衣《じっけんい》をひっかけている。
紫色の大きなくちびるをぐっとへの字にむすんで、お三根《みね》の死体をじろりと見たが、べつにおどろいたようでもなく、かれは視線を係官の方へうつす。
「ぼくが針目です。ぼくに会いたいといっていられたのはどなたですか」
検事はさっきからこの家の主人公である針目博士か入ってきたことを知っていたが、博士がどんな挙動《きょどう》をするかをしばらく見定めたいと思ったので、今まで知らぬ顔をしていたのである。
「ああ、それはわたしです。わたしが会見を申しこんだのです。検事局の長戸検事です」
検事ははじめて声をかけた。
「検事! ふーン。お三根《みね》の死因はわかりましたか」
博士はひややかに聞く。
「わかりました。頸動脈《けいどうみゃく》をするどい刃物《はもの》で斬られて、出血多量で死んだと思います」
「自殺ですか。それとも……」
「自殺する原因があったでしょうか」
検事は、ちょっとしたことばのはしにも、職業意識をはたらかして、突っこむものだ。
「知らんですなあ」
博士は、両手をうしろに組んで、ぶっきらぼうにものをいう。
「わたしどもは、他殺事件だと考えています」
「他殺? ふーン。下手人は誰でしたか」
博士はおなじ調子できく。
「さあ、それがもうわかっていれば、われわれもこんな顔をしていないのですが……」
と検事はちょっと皮肉めいたことばをもらし、
「真犯人をつきとめるためには、ぜひとも、あなたのお力ぞえを得なくてはならないと思いまして、会見をお願いしたわけです」
「ぼくは、何もあなたがたの参考になるようなことを持っていないのです。生き残った者に聞いてごらんになるほうがいいでしょう」
「それはもうしらべずみです。あとはあなたにおたずねすることが残っているだけです」
「ああ、そうですか。それなら何でもお聞きなさい」
あざ笑う博士
そこで検事は、型のとおりに昨夜お三根が殺される前後の時刻において、博士はどんなことをしていたか、叫び声を聞かなかったか。格闘の物音を耳にしなかったか。犯人と思われる者のすがたを見、または足音を聞かなかったか。それから最初にこの事件に気がついたのは何時ごろだったか、などについて訊問《じんもん》していった。
これに対する博士の答えは、かんたんであり、そして明瞭《めいりょう》であった。
それによると、博士は昨夕《さくゆう》いらい、徹夜実験をつづけていたこと。犯行の音も聞かず、犯人のすがたも見なかったこと。そして博士はその徹夜のうち、二度ばかり実験室を出てかわや[#「かわや」に傍点]へいっただけで、他は実験室ばかりにいたことを述べた。
検事は、博士のことばについて、いろいろとものたりなさを感じた。あれだけの殺人が、十|間《けん》ほどはなれているにしても、同じ屋根の下で行なわれたのに、被害者の声も耳にしなかったというのはおかしく思われた。
「じゃあ、誰がお三根を殺したと思われますか。ご意見を参考までにお聞きしたいのですが」
「知らんです。人の私行《しこう》については興味を持っていません」
「まさかあなたがその下手人ではありますまいね」
検事のこのことばは、はじめてこの無神経な冷血動物《れいけつどうぶつ》のような博士を、とびあがらせる力があった。
「な、何ですって。ぼくが殺したというのですか。どこにぼくがこの女を殺さねばならない必要があるのです。さあ、それをいいたまえ、早く……」
長身の博士が、髪をふりみだして、両手をひろげて検事の方へせまったかっこうは、とてもものすごいものだった。
長戸検事はたじたじとうしろへ二、三歩さがってから、博士をおしもどすように手をふった。
「なぜそんなに興奮なさるんですか。わたしとしては、今の質問にイエスとかノウとか、かんたんにお答えくださればそれでよかったんです」
「失敬な……」
と博士はやせた肩を波うたせて、ふうふう息を切っていたが、
「もちろん、ぼくはこんな女を殺したおぼえはない」
「この邸にはみょうな仕掛けがあるといっている者があるんですがね、お心あたりはありませんか。たとえば、するどい刃物を矢のさきにとりつけたものを、弓につがえて飛ばせる。そして人間に斬りけるという……」
「はっはっはっ」博士は笑いだした。
「きみはずいぶんでたらめ[#「でたらめ」に傍点]なことを聞くですなあ。それはおとぎばなしにある話ですか」
「いや、大まじめで、あなたのご意見をうかがっているのです。……そしてその恐るべき兇器《きょうき》は人目にもはいらない速さで、遠くへ飛んでいってしまう……」
「おとぎばなしならもうたくさんだ。ぼくはいそがしいからだだ。もうこれぐらいにしてくれたまえ
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