云った。
「よォし、無いと判ってりゃ、よいのだ」大尉はそう云うとクルリと身を飜《ひるがえ》し、いきなり星宮学士の両腕をグッと掴《つか》んだ。「貴様! という貴様は、実に怪しからん奴だ。儂《わし》の女房を誘惑して置いて、よくもあんな無礼《ぶれい》きわまる口を叩いたな。死ぬのを怖れんという貴様に、殺される苦痛がどんなものか教えてやるんだ!」
 実験室の静寂《せいじゃく》と平和とは、古石垣《ふるいしがき》のようにガラガラと崩れて行った。
「ウフ。今になって気がついたか、可哀想な大尉どの。だが僕が簡単に殺せると思ったら大間違いだよ」
「言うな、色魔《しきま》!」
「なにを――」と星宮学士は、右のポケットにあるピストルを探りあてた。それを出そうと思って、大尉につかまれた右腕を離そうとして、必死に振りきった。べりべりッという厭《い》やな音がして、学士の洋服が引裂けると、右腕が急に自由になった。
(こうなると、こっちのものだ)
 そう思った星宮学士は、ピストルを握った右の拳をグッと前にのばそうとした。そこを、
「エイ、ヤッ」
 と大尉が飛びついて、両腕をグッと捻《ね》じあげた。学士は捻じられながらも、いきなり大尉の脇腹を力一杯
「ウン!」
 と蹴とばしたが、この時遅し、大尉は素早く、身体を左に開いたので、気絶することから、辛《かろ》うじて免れたが、その代り、二人の身体は、もつれあったまま、もんどり打って床の上に仆《たお》れてしまった。二人は跳ねおきようと、互《たがい》に死物《しにもの》ぐるいの格闘をつづけ、机をひっくりかえし、書類箱を押したおしているうちに、どうした弾《はず》みか、ピストルが星宮理学士の手許をはなれ、ガチャンと音をたてて、向うの壁に叩きつけられた。
「さあ、この野郎。ほざけるなら、ほざいてみろ!」
 そう云って、いかにも勝ちほこった名乗をあげたのは、川波大尉だった。星宮理学士は大尉の逞《たくま》しい腕にその細首をねじあげられて、ほとんど宙にぶらさがっていた。が、どんな隙《すき》があったのだろうか、学士は両手を大尉の股間《こかん》にグッと落とすと、無我夢中になって大尉の急所を掴《つか》んだのだった。
「ウーム」
 と大尉が呻《うな》った。彼の顔は赤くなり、青くなりしたが、これも死にもの狂いの形相《ぎょうそう》ものすごく、学士の身体をグッと手許へよせると、骨も砕けよと敵手の頸《くび》を締めつけた。学士は朦朧《もうろう》と落ちてゆく意識のうちに、頻《しき》りに口を大きくひらいては喘《あえ》いでいた。だが彼の執念《しゅうねん》ぶかい両手は、なおも大尉の急所を掴んでそれを緩《ゆる》めようとはしなかった。この儘《まま》に捨てておくと、二人とも共軛関係《きょうやくかんけい》において死の門をくぐるばかりだった。
「紅子、うう射て……ピストル、いいから……」
 大尉の声は、切れ切れに、蚊細《かぼそ》く、夫人の援助をもとめたのだった。
 このとき紅子は、いつの間にやら、右手にしっかりとピストルを握りしめていたが、夫大尉のこの声をきくと、莞爾《かんじ》とほほえんだ。
「いいこと!」
 紅子のしなやかな腕がグッと前に伸びる。キラリとピストルの腹が光って、引金がカチリと引かれた。
「ズドーン!」
 銃声一発――大尉と学士とは、壁際《かべぎわ》から同体に搦《から》みあったまま、ズルズルと音をさせて、横に仆《たお》れた。
 ピストルの煙が、やっと薄らいだとき、仆れた二人のうちの一人が、フラフラと半身を起した。それは大尉にはあらで、意外にも星宮理学士だった。
 彼は、紅子が一発のもとに射ち殺したのは、彼女の夫君《ふくん》である川波大尉だと知ると、咄嗟《とっさ》のうちに気をとり直し、威厳をつけて、ノッソリ起きあがると、フラフラと紅子の方に歩みよるのだった。
「星宮君。ここへ懸け給え」
 このとき、静かに云ったのは、この場の生命のやりとりに、一と言も口を利かず、片腕もあげなかった奇怪の人物、大蘆原軍医《おおあしはらぐんい》だった。自分の名をよばれると、流石《さすが》の星宮理学士も、ギョッとして、その場に立ち竦《すく》んだ。
「星宮君。私の第三話が、もうすこしで、尻切《しりき》れ蜻蛉《とんぼ》になるところだった。幸い君は生命をとりとめたようだから、サアここへ坐って、あの話の続きを聞いてくれ給え」
 軍医は、落着きはらって、空虚になった二つの椅子を指した。学士は、眼に見えぬ糸に操《あやつ》られるかのように、ヨロヨロとよろめきながら、やっとその椅子の傍まで近付くと、崩れるように、その上に腰を下ろした。
「……」
「さア、いいかね、星宮君。さっきは、僕に手術を頼んだ娘の次兄というのが、素晴らしい復讐方法を、妹をかどわかした男に加えるため、考えついた、というところまで話
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