いか、瞼《まぶた》が腫《は》れあがっている。
「早いもので、ボーイさんも相手にせず、電話も通じて呉れないんで……」
 と老人は恐縮《きょうしゅく》した。
「なんだネ、こんな朝っぱらから」
 私はチェリーをとって口に銜《くわ》えた。
「イヤ政どん、今日は早朝から、わしも大騒ぎさ。アノ、カンカン寅の一家が、わしのところへ押し寄せてきやがった」
「ほうほう」私は紫の煙を、天井高く吹きあげた。美しい煙の輪がクルクル廻る。
「昨日はてんで[#「てんで」に傍点]相手にしなかったあの海岸通の建物を買うというのさ」
「うん、うん」
「わしは腹が立って、手厳《てきび》しく跳ねつけてやったよ。あれはもう売っちまった。もう遅いよとナ。すると、それはいかん、是非こっちへ売れという。それは駄目だと、尚《なお》も突っぱねると、向うは躍気《やっき》さ。こっちへ買い戻さねば親分に済まねえ。売らないというのなら手前は生かしちゃ置けねえと脅《おど》しやがる。それがどうも本気らしいので、政どんの昨夜《ゆうべ》の話もあり、じゃあ一寸相談してくるといってその場は納めたが……」と壮平は顔を慄《ふる》わせた。
「――じゃあ、売っておやりよ」
「えッ」
「売ってやるが、すこし高いがいいかと云うんだ。五千円なら売るが、一文も引けないと啖呵《たんか》を切るんだ」
「そいつはどうも」
「云うのが厭なら、私はあの建物を手離さないよ。……そいつは冗談だが、こいつは儲《もう》け話なんだ。相手は屹度《きっと》買うよ。彼奴等《あいつら》はきっと今朝がた、留置場《りゅうちじょう》のカンカン寅と連絡をしたのだ。そのとき買っとかなけれア手前たちと縁を切るぞぐらいなことを云って脅したんだよ。カンカン寅から出た話なら、五千円にはきっと買う。やってごらんよ」
 壮平爺さんは、私が心を翻《ひるがえ》さないと見て、諦《あきら》めて帰りかけた。
「ああ、ちょっと」と私は呼びとめ、「いいかい爺さん。五千円を掴《つか》んだら、直ぐ横浜《はま》を出発《たつ》んだ。娘さんも連れて行くんだぜ」
「どうして?」
「もう此上《このうえ》横浜《はま》に居たって、面白いことは降って来《こ》やしないよ。お前たちは苦しくなる一方だ。いい加減《かげん》に見切《みきり》をつけて、横浜《はま》をオサラバにするんだ。ぐずぐずしていりゃ、カンカン寅の一味にひどい目に遭わされるぞ」
「……」
「そしてその五千円だが、それも爺さんにあげるよ。小さいときいろいろと可愛がって貰ったお礼にネ」
「五千円を?」と壮平老人は目を丸くして「五千円よりもその言葉の方が嬉しいが、一体わし達はどこへ行けばいいのかネ。こうなると、わしはお前のところから遠く離れるのが心細くなるよ」
 老人は悦《よろこ》びのあとで、また両眼《りょうがん》をうるませた。
「満洲へゆくんだ。丁度《ちょうど》幸《さいわ》い、今夜十一時に横浜《はま》を出る貨物船|清見丸《きよみまる》というのがある。その船長は銀座生れで、親しい先輩さ。そいつに話して置くから、今夜のうちに港を離れるんだ」
「満洲かい。……それもよかろう」
「じゃ娘さんに話をして、直ぐに仕度にかかるんだ。外《ほか》には誰にも話しちゃ駄目だぜ」
「そりゃ大丈夫だ」と老人は肯《うなず》いて「じゃ、万事お前さんの云うとおりにしよう。それでは順序として、まず五千円の商談をして来よう」
「ちょっと待った」と私は老人を呼び止めた。「あの建物の取引だが、今夜の十時にするといって呉れ」
「莫迦《ばか》に遅いじゃないかネ。いま直ぐじゃ拙《まず》いのかい」
「ちょっと拙いのさ。というのは、あれを私が買ってから、中身《なかみ》を少し搬《はこ》び出してしまったのよ、そいつを元通りに返すとすると、どうしても午後十時になる」
「へえ、中身をネ」老人は訝《いぶ》かしそうに呟《つぶや》いた。「中身というと、あの酸の入っている……」
「そうさ、酸を或る所へ持っていったのさ。買ったからにゃ、宝ものは私のものだからネ」
「そういえばカンカン寅の一味も、あの中身をソックリつけてと云っていたよ。こいつは変だぞ。……オイ政どん、噂に聞くと、あのカンカン寅が銀座の金塊を盗みだしたというが、お前は昨日《ゆうべ》、あの建物にカンカン寅が隠してあった九万円の金塊を探しだして、搬びだしたんだナ」
「金塊は無かったよ」と私は朗《ほがら》かに云った。「金塊どころか、金の伸棒《のべぼう》も入っていなかったことは、警官たちが一々検査して認めているよ」
「ほほう、そのとき警官が立ち会ったのかい」
「立ち会ったともさ。何しろその中身はいま警察へ行っているんだぜ」
「へへえ、中身が警察へネ。わしにゃ判らない。一体その酸をどうしようというので……」
「いまに号外が出る。そのとき訳が判るよ」



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