て、忘れかねた。
 八時過ぎたとき、誰かがもう失礼しないと都電がおしまいになるのではないかといった。まだ八時過ぎたばかりで、都電の赤電[#終電の別称]がある筈はあるまいと思っていると、岡東が時計を見て、ああ、そろそろ急がなくては……という。本当かいと聞けば、この頃の都電は八時半頃で終車となる由。これには驚いた。先ごろ玉川線が十時半終車になったので、甚だ早すぎると思ったが、都電が八時半位で赤電になるなら、玉川線はまだましの方だ。
 客三人と岡東父子との五名で、仙台坂を二の橋の方ヘ下りて行く。
 坂上の交番は先日廃止になったばかりだったが、おまわりさんが三人も入って勤務している。こわふしぎと聞けば、岡東の話に、先々月二十五日にこの附近一帯が焼けてしまってからは、お巡りさんの交番も数がうんとすくなくなったらしく、再びここが開かれたのだという。
 仙台坂を少し下って行くと、右側に米内海軍大臣の仮寓《かぐう》があった。米内さんの家は原宿だったが焼け、それ以来ここに来て居られる由。
 そこを過ぎるともう焼野原。月もまだ出ぬ暗闇ながら、ひろびろと焼野原がつづいているのがわかる。
 坂の途中に、電灯を煌々《こうこう》とつけて土木工事をやっている。近づくと兵隊さんの姿もあり、兵舎のようなものもある。土木工事の小屋にしては今どきたいしたぜいたくなもの、といぶかっていると、これは地下道を掘っているのだった。ゲリラ戦用の地下道で、麻布一番から霞町へ抜ける長いものだという話。ヘえ、そうかいと私は目を見張って改めて現状を見直した。煌々たる電灯の光に、墓石が白く闇にうき出して林立しているのが見えた。亡者たちが、「わしらの眠っている下を掘るのですよ、わしらもいよいよ戦列につきましたわい、はははは」といっているようだ。
 坂下へおりて、停留所に佇む。とたんにラジオが警報を伝える。伊豆地区に警戒警報が出たらしい。
 折柄、電車のへッドライトがこっちへ向かって来る。古川橋まで駈けて、それに乗る。五反田行だ。
 岡東父子の顔が、闇の中に残る。
 電車は走り出したが、魚籃《ぎょらん》のところで東京地区の警報発令、車内は全部消灯する。それから全然無灯で闇の中を電車は走る。
 日吉坂下で架線の断線があり、停まってしまう。どうなる事かと心配していると、案外早く電気が来て、また動き出す。
 清正公前から明治学院の前を通り、五反田へ向かって電車は闇をついて走る。あぶなかしくもあり、何となく勇しくもある。戦闘前進中のようで……。
 雉ノ宮の坂を下るとき、右方に電気試験所の焼跡があるので、何か見えるかと思って窓から闇を透かしたが、何も見えない。いや見えた、灯が一つ。不用意の灯、試験所の宿直がそうなら呑気すぎる。
 電車は五反田駅前でぴたりと停る。「はい十銭」「はい定期です」乗客はおとなしく、車掌も「気をつけてくださいよ。足もとが暗いですから」といつになく親切だ。下におりたが、さて駅の改札はどこだかわからぬ。焼けてしまった上に、まっくらだからである。
 ようやく見つけて、女駅員に声をかける。「切符はどこで売っていますかね」「着駅で払って下さい」で通してくれる。「階段はどこ?」「まっすぐ行って右ですよ、右の壁を伝《つたわ》っていってください」なるほど、と壁をさぐりながら行く。ようやく見当がついた。階段より上がれば、高いホームの上は、案外空が明かるい。乗客が温和《おとな》しく電車を待っている。電車は間もなくホームへ入って来た。乗客がぎっしり詰まっていた。
 渋谷で降りる。朝倉、加藤両氏は帝都線であるから、そこで別れる。
 玉川線のホームに入ると、電車が一台待っている。「柴栗さん」というアダ名の張りきり助役さんが、声を張りあげてまっくらなホームにくりこんでくる乗客を整理している。「この電車は玉川行です。下高井戸行の方もこれに乗って下さい。警報がどうなるかわかりませんから、すこしでも先に行っておいて下さい」と、時宜に通じた注意を出している。
 くらやみの中に、ぎゅうぎゅうつめられる。能率がわるい。ひどく押される。三軒茶屋で降りて、乗替えを待つ。
 電車はなかなか来ず。そのうちB29の爆音が近づいて来る。「そらB公だ」と空を仰ぐが見えない。そのうちに遠ざかっていった。しばらくして、また爆音が近づく。「単発だ。味方機だよ」と誰やらが呟《つぶや》く。もうすっかり耳の訓練の出来ている都民たちだ。
 電車はまだこない。乗客たちは待ちあぐんで皆ホームに腰を下ろし、足をレールの方へ出し腰を据えた。
 夜気が冷えびえと頬のあたりへ忍びよる。太子堂の焼残った教会の塔が浮かんで見える。月がようやく東の空にのぼりはじめたらしい。夜空は大分明かるさを増した。

 七月三十日
◯昨夜は天竜川口で、敵米艦隊の艦砲射撃が
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