たことはありません。文字通り心身共に破滅に瀕するという始末です」
「一体どうしたというわけですか。誘拐された先で、どんな目にお遭いなすったんで……」
 探偵猫々はそれには応えず、瞑目《めいもく》したまましばし額《ひたい》をおさえていた。彼はその恐ろしかりし責苦の場面をまた新しく今目の前に思い出したのであろう。ややあって探偵は目を明いた。そして吐息《といき》と共に語り出した。
「……それがですよ、苅谷さん。私は烏啼天駆に拐《かどわ》かされて、彼奴の後宮《ハレム》へ入れられちまったんです。もっとも私の役は、後宮の一員として彼奴に仕えることでなく、実は後宮の美女たちに仕える女の役を仰せつかったんです。三日間というものを、私は働かされましたよ。考えてもみて下さい、女に限りいいつけられる雑用を美女の傍近くで三日間相勤めたんですからね。身は朽木《くちき》にあらずです。いや全く幾度か窒息しそうでしたよ。生きてここへ戻って来られたのは何んという奇蹟!」
 探偵猫々は大汗をかいて怪話を語る。
「結構な話じゃありませんか」
 と苅谷氏が目を細くした。
「で烏啼天狗はどんなことをやらかして居ましたか」
「それがね予想に反しましてね、烏啼は最初私を後宮へ連れこむまでは居ました。しかしすぐどこかへ行ってしまって、それ以来今に至るまで、烏啼とは顔を合わさないのです。ですから彼奴を相手に目論《もくろ》んだこともあったのですが、そういう次第で実行にうつさないでしまいました」
「それくらいの穏健《おんけん》な勤めなら、なにも家内を隠すほどのこともなかったですね」
「いや、そうでもありませんよ、苅谷さん。大事な奥さまを一度あの後宮の空気で刺戟した日にゃ、失礼ながらあなたは永生きが出来ませんよ。――それはそれとして、私は烏啼について新しく語るべきものを持って帰りました」
「お土産《みやげ》ですか」
「正にお土産です。帰り際になると、私は女執事からこのような立派なダイヤ入りのブローチを貰《もら》いました。小さいけれどこれは間違いなくダイヤモンドです。かの女執事のいうことには、これは主人があなたへのお支払としてお渡しするものだから持って帰るようにといわれました。つまり三日間の勤務に対する代償だというんです」
「いいブローチですね」
「かねて烏啼天駆は、掏摸《すり》といえども代償を支払うべしとの説をかかげてい
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