リとわかる婦人だった。
 奇妙な黒い棺桶のような荷物をよく見れば、金色の厳重な錠前が処々《しょしょ》に下りている上、耳が生えているように、丈夫な黒革製の手携《てさげ》ハンドルが一つならずも二つもついていた。
 棺桶ではない。どうやら風変りな大鞄であるらしい。
 婦人は猟人形のように眉一つ動かさず、徐々に車を走らせて前を通り過ぎた。僕はカメラを頸につるしたまま、次第に遠ざかりゆくその奇異な車を飽かず見送った。
「お気に召しましたか。ねえ旦那」
「ああ、気に入ったね」
「――あれですよ『ヒルミ夫人の冷蔵鞄』というのは――」
「え、ヒルミ夫人の冷蔵鞄?」
 僕はハッとわれにかえった。いつの間にか入ってきた見知らぬ話相手の声に――
「おお君は一体誰だい」
 僕はうしろにふりかえって、そこに立っている若い男を見つめた。
「私かネ、わたしはこの街にくっついている煤《すす》みたいな男でさあ」
 といって彼は歯のない齦《はぐき》を見せて笑った。
「しかしヒルミ夫人の冷蔵鞄のことについては、この街中で誰よりもよく知っているこの私でさあ。香りの高いコーヒー一杯と、スイス製のチーズをつけたトーストと引換えに、私はあのヒルミ夫人の冷蔵鞄のなかに何が入っているかを話してあげてもいいんですがネ」
 そういって、若い男はブルブル慄《ふる》える指を、紫色の下唇にもっていった。

 或る高層建築の静かな食堂のうちで、コーヒーとチーズ・トーストとを懐しがる若い男の話――
「さっき御覧になったヒルミ夫人――あれは医学博士の称号をもっている婦人ですよ。専門は整形外科です。しかしそればかりではなく、あらゆる医学に通暁《つうぎょう》しています。世にも稀なる大天才ですね。
 田内《たうち》整形外科術――というのは、ヒルミ夫人の誇るべきアルバイトです。ご存知ではないですか。近世の整形外科学は、ヒルミ夫人の手によってすっかり書きかえられてしまったんですよ。どんなに書きかえられたか、それもご存知ないのですか。これからお話してゆくうちに、ひとりでに分ってきましょうが、なにしろここ五ヶ年のヒルミ夫人の努力で、普通にゆけば五十年は充分かかるという進歩をやり上げてしまったのですからネ。まあ政治的文句はそれくらいにして、事実談にうつりましょう。ちょっと事実とは信じられないほどの奇怪なる事件なんですよ」
 と、若い男はポツリポツ
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