つけてしまった。その拍子に正気にかえった。
「おお、つめたい」
 そう言って彼は、両手を鉄柱から離した。抱きついた鉄柱は氷のように冷えていた。うっかりそれを抱えた両手は急に熱を奪われて感覚を失い木乃伊《ミイラ》の手のように収縮したのを感じた。ひょいと眼を高くあげると、両側の建物のおでこのところに、氷柱《つらら》のようなものが白くつめたく光って見えるのだった。
「氷柱ができるような夜かいな」
 眼をこすりこすり幾度も見直しているうちに、帆村はウフウフ笑いだした。
「なアんだ、ネオンサインか。そして此処は正しくネオン横丁。わしゃ、すこし酔ってるね」
 それは、新宿第一のカフェ街、通称ネオン横丁とよばれる通りだった。氷柱と見えたのは、消えているネオンサインの硝子管だった。これがまだ宵のうちであれば、赤、青、緑の色彩うるわしい暈光《うんこう》が両側の軒並に、さまざまのカフェ名や、渦巻や、風車や、カクテル・グラスの形を縫いだして、このネオン横丁の入口に立ったものは、その絢爛《けんらん》たる空間美に、呀《あ》ッと歎声を発せずにはいられない筈である。だが唯今は丑満時をすこし廻った午前四時ちかく、泥のように熟睡しているネオン横丁を、それと見まちがえたのは、あながち帆村荘六が酔っ払っているせいばかりでもなかった。
 彼は鉄柱の傍を離れると、なおも蹌踉《よろよろ》と歩みを運んで、とうとうネオン横丁をとおり抜け、その辻の薄暗い光の下に暫く佇立していたが、決心がついたのでもあろうか、その儘まっすぐに三越裏の壁ぎわを這うようにつたわり、架空灯があかるく點いているムサシノ館前の十字路の、丁度真ン中まで辿りついたのだった。
「おや、なんだろう……」
 夜の静寂を破って、ドターンというような音響が、突然彼の鼓膜をうった。それは急にどんなものがたてた音であると言い当てられない程の、やや鈍い、さまで大きくない音であって、どうやら、彼の背後一二丁のところから響いてきたように思われたのだった。彼は半ば探偵意識を活躍させながら、一方ではその意識を浅ましく舌打ちしながら、後方をずっと見渡して、またもや別な物音がするかしらと耳を澄ましていたが、それから後はカタリとも音がせず、先刻鼓膜をうった音でさえ静寂の中にとけこんで、あれは自分の耳鳴りであったろうかと疑われるのだった。五分、六分、七分……。
「呀《あ》ッ、怪
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