顔が、七三向きに直った。ガーゼには、絵具が附着していた。
女は、ガーゼを白いバットの中で洗って、同じようなことを、画面の他の部分に施した。真中のニンフの手の位置が変化し、それから正面向きの左端のニンフが右向きに変った。
「美事美事。藤代さん、大したものだ。とうとう名画の御出現だ。さあそれはあそこの壁にかけよう」
烏啼は上々の機嫌になって、再現した名画を壁間に掲げ、惚れ惚れと眺めた。
彼が藤代女史にやらせている油絵変貌術は、かつてルーブル美術館からダビンチ筆の「モナリザ」を盗み出し、多数の模写を作って大儲けした賊ジョージ・デーンの手法と技術とを踏襲しているのだった。つまり或る薬液があって、それを画面にかけると、後から塗った画は、綺麗に拭い去ることができるのであった。
烏啼と藤代女史とが、この静かな画房の中で、蒐集の名画八枚をうっとりと眺めているとき、音もなく扉があいて、そこからひどい猫背の黒眼鏡をかけ、長いオーバーを着込んだ男がはいって来て、軽く咳払《せきばら》いをした。
烏啼は「あッ」と叫んで、振り向きざま手馴れたピストルを取直し、あわや引金を引こうとして、危いところで辛うじてそれを思い停《とどま》った。
「やあ、珍客入来だ。これはようこそ、袋猫々先生」
「こんなことだと思ったよ。悪趣味だね」
「なんの、合法的だよ。不正な取引はしていない」
烏啼は、毅然《きぜん》としていた。藤代女史は、さすがに照れて、隅っこへ小さくなる。
「だが、こんなことは、もうよしたがいいね。種はたった一つだ。この種で、何べんも繰返しているなんて、烏啼天駆らしくもない」
「ふん、忠告か。そういえば、同じ手法のくりかえしで気がさすが、世の中には鈍物《どんぶつ》が多いから、まだこの手法を知られていないつもりだが」
「あんたも焼きがまわっているよ」
と袋探偵は、つかつかと「宝角を持つ三人のニンフ」の前へ行った。
「美術商岩田天門堂に化けて二度も同じ手を使うとは、なんて拙《まず》いことだ。それにさ、この画だって、ニセ物だということを君は知らんのか」
「ニセ物? この画が……。うそも休み休み云って貰おう。これは本物だ」
烏啼は激昂して叫んだ。
「ところが、お気の毒さまにも、これはニセ物なんだ。君を見倣って、わが輩のところにもこういう薬があるよ。ちょっと失敬」
そういって袋探偵は、烏啼と藤代女史とを尻目にかけ、オーバーのポケットから出した罎の栓をぬいて、中なる茶色の液体を、ざあッと画面へふりかけた。
「あッ、何をする」
烏啼は、袋猫々にとびついて、その罎を叩き落としたが、もう間に合わなかった。
「騒がないで、よく画面を見るんだね」
袋探偵は、落着き払って、そういった。
すると怪しむべし、画面のニンフや宝角が急に薄れて行き、一分半ばかり経つと、ルウベンスの画はすっかり消え去って、その替りに、その下から拙劣な林間を画いた風景画に変ってしまった。
「おや。これはどうだ」
と烏啼の愕くのを、にやりと笑った袋探偵は、
「これでお分りでござろうが、手前の方にも模写の腕達者《うでだっしゃ》が控えて居りましてね、風景画の上に、ルウベンスの名画を一夜で描きあげる画家が居ますのさ。また、君の持っている薬液を真似て、それと性質の違った別の絵具を溶かして消し去る重宝《ちょうほう》な薬液の用意もござりまする。だから烏啼大人よ。もうこんな古い手はお使いにならんことだね。三文の価値のないインチキ名画を、たとい何千円にしろ、高い金を払い、いろいろ肉体的精神的の苦労を積んで、ここへ集めて来るには及ばないやね」
この勝負、ついに烏啼の負けと決ったようである。
もちろん、後日ではあるが、セザンヌ筆の「カルタを取る人」は、無事に伯爵の手に戻ったことは云うまでもない。伯爵は、死んでもこの画は売らないといっている。
底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房
1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行
初出:「小説読物街」
1949(昭和24)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年12月29日公開
2007年11月31日修正
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