のをあげよう」
彼女は荒々しく封筒を剥して、中から印刷された一枚の紙を取り出した。それは夜会の招待状なのである。
「来る一月十八日月曜夕刻より官宅において舞踏大会相催し候ついては貴殿並びに御令閨にも万障御繰り合わせの上御出席の栄を得度右および御案内候也」
 宛名は二人の名前になっている。そして麗々と官長夫妻の署名がしてある。
 喜ぶと意《おもい》の外、彼女はその招待状を食卓の上に投げつけた。そして、如何にも蔑すんだ様子を面にあらわして、
「貴郎《あなた》、そんなものを私に見せて一体如何しろとおっしゃるんですの」と唸いた。
「お前がさぞ喜ぶことだろうと思ったからさ。この頃お前も滅多に外出《で》たことがないし、丁度いい機会《おり》だと思うがね、招待状を貰うにはこれでも一通りや二通りの苦心じゃあなかったのさ。同僚の者など誰一人行きたがらぬものはないが、これを貰ったのはごく少数《わずか》の人なので、たかが属官風情の私などが出席できるというのは、殆ど異例といってもよい位なものさ。とにかく官界の連中が総出というのだそうだからねえ」
 彼女は焦燥《じれっ》たそうな眼つきをして、
「貴郎は一体私に何を着せて下さるおつもりです?」
 夫は左様なことには一向気がつかなかったのだ。妻からこうたずねられたのでちょっとまごついて、
「芝居に行くときの服装《なり》でいいじゃないか、あれはお前に大変よく似合よ」
 こういうて妻の方を視た。みると彼女は鳴咽《ない》ている。涙が頬を伝って流れている。夫は吃りながら、
「ど、どうした、オイ、どうした?」
 彼女はせきくる涙を無理にとどめて、頬を拭いながらわざと声を落ち着けて、
「何でもありません。衣物がないばかり、それで如何して夜会なぞにまいれましょう。お仲間の方の奥さんが私より、ズートお召のよいのを持っていらっしゃる方があるでしょう、左様《そう》いう方に進上《あげ》たらいいでしょう――なにも……」
 夫は失忘した。が気をとりなおして、
「まあ、機嫌をなおして、私のいうことも聞いてもらわなくっては困るね。夜会に行く服装というのは一体どの位で出来るものかね、せいぜい安く積もって、え?」
 彼女はしばし思案にくれていた。自分の夫のような働きのない気の小さい人に衣物の価値《ねだん》を話したら、さぞ驚くことであろう。よい返事をせぬにきまっていると心では思いながら、如何にも躊躇したように答えた。
「精確《しっかり》とは存知ませんが、四百フランも御座いましたら、どうかなるでござんしょう」
 夫は少しく青くなった。彼は翌年の夏あたり同僚とナンテルの方面に銃猟に行くつもりで、そのためにかねて銃を買うつもりで貯えた金が四百フランばかりあるのだ。
 夫は思い切ったという調子で、
「よし、それならお前に四百フラン遣るから、好きな衣服を買ってくるがいい」
 夜会の日が近づいた。が、彼女は如何したものか沈み勝ちで、何かたえず心配しているようにみえた。服装《なり》もチャント[#「チャント」に傍点]、準備《ととの》ったのである。夫は不思議にたえない。で、ある晩に彼女にたずねた。
「如何した、この二、三日おまえの様子が如何もへんだよ。また、なにか心配なことでもあるのかね?」
「衣服はこれでよいとしても、飾りになる宝石が一ツだってある訳ではないし、私いっそ、もう夜会に参ることはよしましょう」
「それなら、花でもつけてゆくさ、時節柄キット[#「キット」に傍点]よく似合うよ。なに、十フランもあれば見事な薔薇が買えらあね」
「嫌ですよ、立派な貴婦人《かたがた》の前に出て、貧乏くさく見える位恥ずかしいことはありませんからね」
 彼女は中々承知しない。
 夫はなにごとか思いついたらしく、
「お前も余程馬鹿だねえ。それ、お前の親友のフオレスチャ夫人ねえ、あの人の処へ行けば飾り位如何かなりそうなものだねえ、え?」
「真実《ほんとう》に如何したらいいでしょう。私、今までちっとも気がつかなかったわ」
 さも嬉しそうに彼女は叫んだ。
 翌日、彼女は早速親友の処をたずねて、事情を話した。
 フオレスチャ夫人は殊の外同情して、破璃戸の填っている戸棚から大きな宝石の函をとり出してロイゼルの前に開いた。
「さあ、どれでもお気に召したのを」
 彼女はまず腕環をみた。それから真珠の頸飾り、ヴェネシアの十字架、その外精巧を尽くした金銀宝石の種々の飾りを一々手にとってみた。そして、鏡の前へ立って、それを身体の彼処此処《あちこち》へつけて眺めまわした。これかそれかと定めかねてしばし躊躇した。
「もうこの他に御座いませんか?」と口癖のようにいいながら、
「いいえ、ないことも御座いませんが、如何いうのが全体お好きなのやら」と夫人は曖昧な返事をする。
 彼女はとうとう黒い箱の中に入っている
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