いて有名になるということか? 社会運動に従事して、献身的に働くことが出来るということか?――なる程、それ等の慾望もそれぞれに容易に充たされることが出来、それに生き得られたら相応に自分は幸福を感じることが出来るであろう。しかし、自分の真に求めている幸福はそれ等の物が束になって来ても決して充たされないのである。それならばなにか? 一人の女性の全部の愛である。そして、自分もその一人の女性を自分の全部をあげて愛することである。それが出来さえしたら、その他の慾望はなに一ツ充たされないでも、自分は幸福に生き得られると思う。この考えをある友達に打ち明けたらそれは世の中で一番贅沢な要求だそうである。しかし、僕はそのゼイタク[#「ゼイタク」に傍点]を望むのである。それさえ出来れば僕は立ち所[#底本「立所」。読みにくいので『選集』により訂正]に幸福人になり得ると思う。それが満たされない限り、如何にその他の慾望が満たされても、それは決して自分を満足させることは出来ないと思う。僕はかかる異性を求めて、的のない流浪を続けようと思う。
僕は省みて自分がなに一ツ持たない人間だということを痛切に感じる。名誉も地位も財産も、知識も腕力も美貌も技能もなんにもない男だ――それでもせめて年でも若いなら、未だしも最早不惑の年に手が届きそうになっている。それにも拘らず尚一ツ、若く美しくやさしい女性の愛を(しかも全部の)要求しているのだ。――なる程、無理かも知れない、出来ない相談かも知れない。しかし、僕はそういう女性を見出す迄は頭髪が悉く白くなり、顔面が皺苦茶になり、身体が痩せさらばえるまで、この地上を七転八倒しながら、呻吟《うめ》き苦しみながら、のた[#「のた」に傍点]打ちまわって浮浪しようと思う――恐らく、そのような女性の片鱗をさえ仰ぐことが出来ずに何処かの野末か陋巷に野垂死をすることになるだろう――そうなったら、それまでの話である。死んでから先のことは今から考えても追付かない。
若しそんな女性を発見し得たなら、どんな苛酷な所謂資本主義制度の中ででも、どんな残酷な国家制度? の下でも、どんな不自由な、窮屈な目に遇わされてでも自分はそれ等の一切を耐え忍んで幸福に生き得られると思う。或は自分達の愛の生活が充ち溢れて、まるでそんなことを意識することさえ不可能になるかも知れない。そんなことを考える余裕さえなくなるかも知れない。それが出来ない間は、いくら此の世にユウトピヤが実現されても、真の幸福を感じることは出来ないであろう。三分や四分や五分や六分や七分や、八分や九分の愛では、決して自分は満足することは出来ない。考えると自分という人間は自分の身分不相応な、なんという慾深い人間なのだろう――つまり、この地上では永久に出来そうもない、[#底本「。」を「、」に訂正]不可能な要求を勝手にしながら、そのために強いて自分を苦しめ苛んでいる不幸な妄想者といわれても、自分はそれに対して弁明することは出来そうもないのである。いっそ[#「いっそ」に傍点]真実の狂人になって世界中の女が悉く僕にその全部の愛を濺《そそ》いで生きているのだというような妄想を持ち得たら、自分はどれ程幸福になることが出来るだろう。――こんな空想をするだけでも、自分はなんとなく自分が少々それに接近しかけているのではないかとも考えられるのである。
それさえ出来たら、自分はどうやら世界中の人類を悉く愛し得られるように思う。又、如何なる労作も少しも苦痛でなく、喜んでなし得られるような気がする。一切の物が悉く他人の所有でも、決してそれを羨望するようなこともなくなることと思う。唯だ自分の生活がその女性を愛し、彼女から愛されることをもって始終するのである。それが生活意識の中心になる、アルハになり、オメガになり、神になり、仏になり、天国になり、芸術になり――一切になり切るのである。
つまり、自分の生活はその妄想の充たされない苦しまぎれの生活なのだと思う。酒に溺れ、音楽に慰めを求め、女を買い、知識の世界に遊ぼうとするのは悉くその慾求の変形なのである。そして遂にそれ等の一切は自分の真の慾望を充たしてはくれないのである。しかし僕は絶望はしたくない。その無理な慾求を背負いながら、闇黒な流浪の旅を続けるだけである。そして前にもいったように、精根が尽き果てたら死ぬだけの話である。なんというわがまま[#「わがまま」に傍点]な惨澹たる生活だろう。しかし、その妄想の執着が存する限り僕は生きる力がその執着から湧き出してくることと信じている。
この妄想こそ僕の唯一のイリュウジョンである。それ以外の人生の一切は僕に激しい幻滅を与えないでは置かないのである。たとえ一切は虚無でもかまわない。僕はこの妄想に取り縋って生きて行こうと思う。稀代の色狂人と嗤う人は嗤い給え!
自分の自我は今、その妄想で恐ろしく燃焼している。自分の自我はその妄想を食って生きている。僕はこの妄想に不断の燃料を加えて、愈々益々それを白熱化し絶えず溶岩を虚空に向かって奔出させる物凄いヴォルカノの姿にしてみたいと思っている。
書いている間に「浮浪人の法悦」などはいつの間にか姿を失って、どうやら「色狂人の法悦」になってしまったようである。そして指定の枚数も尽きたようである。筆による自己表現の慾望が近頃萌しかけていることはまず自分としてはいい傾向だと思う。自分はまた更に題でも改めて色々な問題に向かって、自分独自な考えを発表したいと思っている。この漫語は一まずこれで切りあげよう。 (一九二一年五月二十九日)
底本:「辻潤著作集3 浮浪漫語」オリオン出版社
1970(昭和45)年3月30日初版発行
※表現のおかしい箇所は、「辻潤選集 玉川新明編」五月書房、1981(昭和56)年10月11日初版を参照して訂正した。
入力:et.vi.of nothing
校正:et.vi.of nothing
1999年1月24日公開
1999年9月6日修正
青空文庫作成ファイル:
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