瀟洒で、庭が比較的広く、庭木も椿とか南天とか紫陽花とかさまざまな種類が植えられていました。四畳半が茶の間で、それが玄関のあがり口にありましたが、親しい訪問客は門を入ると左側の枝折《しお》りがありましたから、そこから中の六畳に通すことにしていました。
 奥の三畳がつまり私の初めて見つけ出した理想的な書斎だったのです。その部屋は中廊下に隔てられた茶室風な離れで、押入れも床の間も廻り縁もついた立派に独立した部屋だったのです。
 私はこの三畳の部屋にひとり立て籠って妄想を逞しくしたり、雑書を乱読したりすることをなによりの楽しみにしていました。
 勿論、部屋の装飾といってはなにもありませんでした。僅かに床柱に花が投げ込まれていた位なものです。しかし床の間には竹田《ちくでん》の描いた墨絵の観音と、その反対の壁には神代杉の額縁に填められたスピノザの肖像がかかっていました。その軸も肖像も両《ふた》つながら私のながい間愛好してきたものですが、今では二ツとも手許にはありません。
 自分はそれで頗る満足して暮らしていたのでした。ただ自分の職業からくる単調さが時々私を憂鬱にした位なものでした。つまり、私には元来野心というようなものがなかったからなのでしょう。
 今でも私はその郊外の閑居で過ごした夏の夕暮の情景を忘れることが出来ません。
 丘の下は一帯のヴァレイで、人家も極めて少なく、遥かに王子の飛鳥山を望むことが出来ました。なんという寺か忘れましたが、谷の向こう側にあるその寺から夕暮にきこえてくる梵鐘の音は実に美しい響きをそのあたりに伝えました。樹々の間から洩れて来る斜陽、蜩の声、ねぐらにかえる鳥の姿、近くの牧場からきこえてくる山羊の声――私はひとり丘の上に彳立んで、これらの情趣を心ゆくまで味わったのでした。それはたとえ消極的ではあったかも知れませんが、静かな幸福を自分にもたらしてくれたのです。
 その後、約十五、六年の間、私は書斎などということを全部忘却してでもいるようにして暮らしているのです。つまり、生活の土台が安定していないからで、出来るならどんなところにいても自分の思うような仕事が出来ればいいなぞとただ不精な考え方をしているのです。
 由来、日本の社会様式や家の構造は、人間になるべく仕事をさせないように故意に出来ているといっても過言ではありません。殊に少しく実の入った精神的な仕事を
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