して生長し、その人として死ねばそれでいいのである。「真人間」にも「超人」にも「犬」にも「仏」にもなる必要もなければ又他から「なれ」という命令を受けることも無用なのである。
 スチルネルはその生前に、彼自身の哲学をどの位まで実生活の上に体現していたかは今考えてみたところで、彼自身以外の、殊に後世の僕等にわかる筈のものではない。そして彼の哲学や、所謂彼の暗示している個人の自由な結合状態というようなものが、果してこの世で実現され得るか否かということも甚だ疑わしいことである。しかし彼の哲学によって人は各自の自我を意識することだけは出来る筈だ。少くとも僕にはそれが出来たと信じている。そして若しかくの如き自覚をもって集合した人々が相互にその自覚した立場を理解し得たら、或は彼の予想した「所有人」の最も自由な結合が出来ないとも限らない。つまり、相互の「わがまま」を認めて許し合う「結合」の状態である。そして、結合することによって相互に自分を利すると考える人々のみが集まればいいわけである。若しその必要を認めなければ、無理にその仲間に這入りこむ要はないのである。それを統治するなん等の権力もない混然たる個人の結合なのである。それがうまくゆくかどうかは別として自分などには一番都合のいい組織のように思われるのである。
 何人も何人を支配したり、命令したりしない状態である。自分の出来ることだけをすればいい。自分の自然の性情や傾向のままに生きればいい。そして出来ないことは他人に任せればよい。自分の能力の領分と他人の能力の領分とをハッキリ意識することである。そして見当ちがいな真似や、余計なオセッカイや、無用な自慢などを相互にしなくなればいいのである。「君は君の好きなことをやり給え、僕は僕の好きなことをやるから」である。「君は何故そんなことをやるのか?」「なんのためにやるのか?」「そんなことはやめたらよかろう」「それは昔から例がない」「それは世間が許さない」「それは道徳的じゃない」(等)ではないのである。
 自分の生きてゆく標準を他に求めないことである。人は各自自分の物尺によって生きよというのである。それ以外にはなんの道徳も標準もないのである。一々聖人や賢人の格言や、お経の文句を引き合に出して来る必要がなくなるのである。約束や習慣はその時々に最も便宜であると思われるものを撰べばよいのである。世の中にこれでなければならないなどという客観的標準は一つだってありはしないのである。人は相互に出来るだけ融通をきかせよである。
 いうまでもなく一種の功利主義かも知れない。しかし名称はなんでもかまわない。名前をつけないと安心出来ない人は自分の好きな名前をつけるがいいのである。
『唯一者とその所有』という書はこれまでの哲学史上からは殆ど無視されてきた。つい近頃、僕は吹田氏の訳したヴンデルバンドの『十九世紀独逸思想史』という書を瞥見したが、その中でもヘエゲル左党の一人によって書かれた「奇異なる」一個の著作として辛うじてその存在を認められている位なものである。若しこの書が哲学としての価値がないのなら、「自我」のロオマンスと呼んでも差支えはあるまい。如何に永い間、「自我」が色々な物によって迫害され、虐遇されたか、――そしてそれが如何にしてスチルネルの力によってその本来の姿に立戻ることが出来たかという全二巻のロオマンスと見做してもよかろう。或は「自我」を極度に高調した哲学的抒情詩だといってもいいかも知れない。ロオマンスや詩などいうものが現実の世界と没交渉などと考える人にはそう考えさせて置いてもよろしい。まだ色々いいたいこともあるが、他の機会に譲ることにする。
[#地付き](一九二一年九月二十日)



底本:「辻潤著作集3 浮浪漫語」オリオン出版社
   1970(昭和45)年3月30日初版発行
※表現のおかしい箇所は、「辻潤選集 玉川新明編」五月書房、1981(昭和56)年10月11日初版を参照して訂正した。
入力:et.vi.of nothing
校正:et.vi.of nothing
1999年1月24日公開
2004年3月2日修正
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