一人でなにか考えこんでばかりいた。学校へ行くことなども勿論、あまり好きではなかった。従って大方の少年の空想するように、英雄豪傑になろうとか、大政治家になろうとか、そんな希望や野心を抱いたことは一度もなかった――第一「なに」になろうなどということもハッキリ考えたことは殆どなかった――それならどんなことを考えていたかというと、実に考えてもなんにもなりそうもないことばかりを考えていた――「全体世の中というのはなんであるか?」「人間とはなにか?」「人間は全体どうしたら一番よく人として生きられるのか?」「神というような者は果して存在しているのだろうか?」「なんのために人生は存在しているのか?」(等)――つまりむずかしくいうと「形而上学的要求」という奴をやっていたのだ――僕の十四五時分の愛読書(今でも時々引っ張り出して読む)が「徒然草」であったことを考えて見ても自分のその頃の心持は略々《ほぼ》察せられる。それから、英語を習い始めてから学校で「ユニオンの第四読本」などを教わっているうちに、いつの間にか基督教にかぶれ出して、今迄手にしていた文学の書物を悉く棄てて宗教の書物ばかりを読むようになった――そんな風で十九歳頃までは基督教信者だった――しかし自分の理性が次第に目覚めて知識的要求が強くなるに従って、単純な宗教では満足出来なくなって来たとみえて、手当り次第に色々な本を解らぬながらも読んでみるようになった――その頃、日本の精神的生活に恐ろしい革命が起った――つまりその時代のヤングジェネレーションが近代的精神の洗礼を受けたのだ――それは今更改めていうまでもなく、ナチュラリズムである。この精神が日本の青年に与えた影響は実に甚大なものである。
 僕は此処でその可否を論ずることはしばらく失敬するが、つまりその精神の洗礼を受けなかった連中は、“Modern Spirit”に取り残された人なのである[#「人なのである」は底本では「人のなのである」]。だから、それより一時代後に生まれた若い人達が「所謂自然主義前派」だったりなどするのはこれ又不思議でもなんでもない。兎に角、僕は幸か不幸かその大きな波をくぐって来たことだけは事実なのである。それからナチュラリズムに対する色々なリアクションが起った――その中で最も著しいのが武者小路氏を中心とした「白樺派」のイディアリズムの勃興である。その二個の精神の争
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