と手紙と彼女の残して行ってくれた短刀を取り出すことが出来たから、その他になんの残り惜しさも感じなかった。
いのち[#「いのち」に傍点]あっての物種!――僕は無意識ながら、この平凡極まる文句を毎日幾度かお経のようにとなえては暮らした。この上一切が灰燼になったら同気相求める人達と一緒に旅芸人の一団でも組織して、全国を巡業してまわるのも一興だなどと真実考えに耽ってもみたりした。
幸いにしてK町は火災を免れたが、それでも地震の被害はかなりに甚大だった。僕の知っていた模範青年の妹が潰されたり、親友の女工が焼け死んだりした。
僕は季節外れの震災談をしようとしているのではないが、ついでにちょっと思い出しているばかりなのだ。
そうだ、僕はこの雑誌の編輯者から伊藤野枝さんの「おもいで」という題を与えられていたのだった。伊藤野枝ともN子とも野枝君ともいわないで僕は野枝さんという。なぜなら、僕の親愛なるまこと[#「まこと」に傍点]君が彼女――即ちまこと[#「まこと」に傍点]君の母である伊藤野枝君を常にそう呼んでいるからなのだ。
僕が野枝さんのことについてなにか書くのはこれが恐らく初めてだ。これまで
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