る魂』、宮崎資夫の『仮想者の恋』、野上弥生女史の『或る女』、大杉君の『死灰の中より』、谷崎潤一郎の『鮫人』――その他まだ色々とある。
僕の生活はまことに浮遊で、自分では生まれてからまだなに一つ社会のためにも人類のためにも尽したことがない位にバイ菌でもあるが、僕の存在理由はだがそれらの傑作を供給したことによってもいささか意義がありそうでもある。また三面種を供給して世人をしばしの退屈から脱却せしめる点においてもあまり無意味でもなさそうだ。なにも大日本帝国に生まれたからといって朝から晩まで青筋を立てシカメッツラをして、なんら生産にもならないやかましい議論をして暮らさなけりゃならないという義務もあるまい。たまには僕のような厄介な人間一匹位にムダ飯を食わしておいたとて、天下国家のさして害にはなるまい。
僕は絶学無為の閑道人で、ただフラリフラリとして懐中にバクダン一個持っているわけでもないから、警察の諸君も御心配は御無用だ。この上誰かのようにアマヤカされたりしては、それこそやりきれたものじゃない。
全体神経が過敏すぎる。恐迫観念が強すぎる、洒落やユーモアのわからない野蛮人に遇っては助からない。文化は三千年程逆戻りだ。それも性からの原始人ならば獅子や虎と同じに相手が出来るが、なまじ妙な教育とかなんとかいうものがあり過ぎるので始末がわるい。
豚に真珠ということもあるが、野蛮人に刃物ということもある。社会主義というものがどんなに立派なイズムだか知らないが、それをふりまわす人間は必ずしも立派な物じゃない。仏や耶蘇の教義だって同じことだ。仏教やヤソ教の歴史を考えてもみるがいい。神様をダシに使って殺人をやった野蛮人がどれ程いたか。
野枝さんや大杉君の死について僕はなんにもいいたくない――あの日に僕のK町の家を尋ねてくれたそうだが、それはK町に大杉君の弟さんがいたから、そのついでによったのでもあろう。
野枝さんは殺される少し以前に、アルスから出た大杉君と共訳のファーブルの自然科学をまこと君に送ってくれた。それが野枝さんのまこと君に対する最後の贈り物で、形見になったわけだ。
僕はこの数年、つまり野枝さんとわかれてから、まったく、わかれてからというよりは解放されてからといった方が適切かも知れない――御存知のようなボヘエムになってしまった。心機一転して僕自身にかえり、僕は気儘に生きてきた。しかし事ある毎にいつも引き合いに出されるのは借金がいつまでたっても抜けきれない感がある。恐らく死ぬまでまた幾度となく、更に死んでからも引き合いに出されることだろう。無法庵はこないだもまた十八番の因縁をもって法とするとエラそうなことをいって訣別の辞を残したが、まったく因縁ずくというものはどうも致仕方がない。――あきらめるより致仕方はない。
僕はおふくろとまこと君とを弟や妹とに託して、殆ど家を外にして漂泊して歩いていまでもいる。現に四国港に流れついて、またこれからどこへ行ってやろうなどと現に考えている――だから僕の留守に度々野枝さんはまこと君に遇いにきたそうだ。しかも下谷にいる時などは僕と同棲中僕のおふくろから少しばかり習い覚えた三絃をお供つきで復習にきたなどという珍談もある。僕のおふくろでも弟でも妹でもみんな野枝さんが好きなようだった。ただまこと君だけはあまり野枝さんを好いてはいなかったようだ。
大杉君が子供が好きだということは先輩諸君もアチコチで書いていられるようだが、まこと君は大杉ヤのおじさん――とまこと君はいつでも大杉君のことを呼んでいたが――に連れられてしばしば鎌倉や葉山や小田原や方々につれて行かれたようだ。しかし、幸いにしてこんどだけは僕の家が潰れて引っ越してしまったので、まこと君は大杉ヤのおじさんに連れて行かれず、そのかわり気の毒な宗一君が身代りになったようなわけで、これを考えると僕は宗一君は知らないが、どうもやはりまこと君と同じように少しも区別がつかずに宗一君のことを連想するようになって、従って宗一君のおかあさんのことが考えられて、野枝さんのことが考えられて、――僕は思わず無意識に哀れな僕の伴侶の驢馬君のケツを思い切りヒッパタイていささか心やりとするのだが、ポケットにピストルを入れて文学をやるルウマニアのトリストラム・ツアラアのことを考えてもみるのである。
まことに植木鉢はいつバルコニーから頭上に落ちてきまいものでもないこの人生において、今夜カフェの女給さんにやるチップが一銭もないことを徒に下宿の二階で瞑想するハンス・アルプも随分と馬鹿ではあるが、親愛なるまこと君と上総の海岸にいる流二君のことを徒に考えて、阿呆らしき原稿を書いている僕の如きオヤジも随分と唐変木ではある。
流二君はまこと君に二歳の弟にして、野枝さんはかって大杉君と一緒に駈け落
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