していたら、いかに幸福であり得たことか! それを考えると僕はただ野枝さんに感謝するのみだ。そんなことを永久に続けようなどという考えがそもそものまちがいなのだ。
 結婚は恋愛の墓場――旧い文句だがいかにもその通り、恋愛の結末は情熱の最高調において男女相抱いて死することあるのみ。グズグズと生きて、子供など生まれたら勿論それはザッツオールだ。だが人間よほど幸運に生まれない限り、一生の中にそんな恋愛をすることはまれだ。はなはだしきは恋愛のレの字も知らずに死ぬ劣等人種の方が世間にはザラ[#「ザラ」に傍点]だ。
 僕は幸いにして今なお恋愛を続けている。恐らくこの恋愛は僕の生きている限り続くであろう。野枝さんの場合におけるが如き蕪雑にして不自然なものではなく、僕の思想や感情がようやく円熟しかけてきてからの恋愛なのだから、遙かに高貴でもあり純一でもある。そればかりか僕は更に若くして豊満なる肉体の所有者から愛せられている。彼女は僕のために一生を犠牲に供する覚悟でいる。それを考えると、僕は無一物の放浪児ではあるが一面なかなかの幸運児でもあるのである。故に僕は、進んで一代の風雲児をあまり羨望しようとはしないのだ。腹が減っては恋愛も一向ふるわなくなる。パンと酒なければ恋また冷やかなり羅馬のホラチウスは多分いったはずだが、金の切れ目が縁の切れ目なることはあにただに売女にのみ限ったものではない。
 無産者の教師が学校をやめたらスグト食えなくなる。教師をしていてさえ、母子三人ではあまり贅沢な生活どころか、普通のくらしだって出来はしない。だから僕は内職に夜学を教えたり、家庭教師に雇われたりしていた。――ほんの僅かの銭のために!
 僕は子供の時から文学は好きだった。しかし文学者として立つ才能を所有しているというような自信は薬にしたくも持ち合わせてはいなかった。のみならず文学は職業とすべきものではないと考えていたから、僕はそれを単に自分の道楽の如く見なしていたのである。しかしまた道楽によって生活することがもし出来たとすれば、これ程結構なことはないと考えてもいた。
 とりあえず手近な翻訳から始めて、暗中模索的に文学によって飯を食う方法を講じようとしてみた。当時の文学に対する知識は充分あったが、文壇に対するそれは全然ゼロであった。
 全体僕の最初の動機は野枝さんと恋愛をやめるためではなく、彼女の持っている
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