会という奴で全体どの位ゼニが集まったものやらどなたとどなたがお金をおめぐみ下すった物やら、僕はとんと存知あげなかったもんだから「よみうり」でたった一度きり御礼を申しあげたっきり、実のところまだどこへも御礼状もさしあげずに失礼しているわけなんだが――まことにおちおちねるところもなかったようなわけだったのでなんとも申しわけがないようなわけでいずれそのうち本でも出した節にはいささか御礼のつもりでさしあげたいと思っているが――かなり気になってはいた。しかし「棄恩入無為真実報恩者」という甚だ虫のいい文句がほとけさまの方にあるので、そいつをちょいと拝借してお茶を濁しておくことにする。
実際、まだ退院後一年にもなるが無想庵にさえ一度もテガミをやらない始末だ。どうしているかと時々心配はしているもののどうにもしようがない。彼も向こうにいてずいぶん沢山のものを書いて、たぶんこちらの雑誌社にも送っているのだろうとは思うが一向に見あたらない。それに右眼が潰れそうになったとかいう話をきいたがさぞつらかろう。もッともイボンヌという娘がいるから、せめてものなぐさめだが、いればいるでまた別の苦労がふえるもんだから――いやはやとんでもないグチをこぼし始めたが――まったくイヤじゃありませんか!
「羨やましい辻潤」という彼の文章をよんで僕はしみじみと彼の友情をかんじたのだが、ひるがえって、僕は彼に対して果してそれにむくゆる程の友情をもっているかどうかと考えると――まったく自信がなさすぎる。
5
自分はむかしッから、物をもつことがきらいな性分だ。どうしてきらいかというとうるさいからだ。これは自分が無慾だということではなく人一倍物に対する執着が強いせいだ。だから物に束縛されやすい。まったく不自由位世にイヤなものはない。だれだって「自由」がきらいな[#「きらいな」は底本では「きらない」]ものはあるまい。では、どうすれば自分が自由になれるかというと――このコーシャクは少々ながくなりそうだから、この次にするが――結論だけをいうと「絶対の自由」なんかというものは絶対にあり得ないということになる。若しあればそれは極めて消極的なものだ。さて、消極的ということばだが――立場をひッくりかえせば、すぐ積極になる。これは主観と客観ということばの場合と同一でイワユルなんかんてんところてんの相違である。あまりわかり過ぎることをいうようだが――世には言葉そのものにひッかかって、どうしても物の道理のわからんヘチヤモクレが多いので、とかくめんどうになりやすい。だから、この際ちょいとアーフヘエベンしておく。[#地から1字上げ](昭和八年五月)
底本:「辻潤著作集2 癡人の独語」オリオン出版社
1970(昭和45)年1月30日初版発行
※表現のおかしい箇所は、「辻潤選集」(玉川新明編、五月書房、昭和56年10月発行)を参照して訂正。
入力:et.vi.of nothing
校正:かとうかおり
1999年11月20日公開
2006年1月4日修正
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