う一溜りもなく悄気かえって「洋行」なんぞ問題じゃないのだ。若し私が西洋に行ってホームシックに罹ったとしたら母親や、恋人(ありや? なしや!)のことを考え出すよりも、一番に味噌汁や香ノ物のことに思い到るであろう。
 それから、同行の子供のことだが、初めは連れて行くつもりでもなかったが、子供がしきりに行きたがるし、考えて見ると、日本で中学程度の学業を終えたところで自分だけの飯が食えるか食えないかまったくわからないという程の御時勢なのだ。考えるとまったく慄然たらざるを得ない。それに入学試験という児童等にとって世にも恐ろしい難関がある、一体これからの子供達――特に貧乏人の子供達はどうして生きてゆかれるか賢明な御仁に伺いたい位なものでありやす。
 幸い私と同行する息子は多少の画才があるので、向うへ行ってまかりまちがえば画描き(になられてはオヤジは実は閉口なのだが)になる可能性がありそうなので、当人の為めには向こうへ連れて行く方がいいじゃないか[#底本「いいじゃいか」を「いいじゃないか」に訂正]という漠然とした気持から連れて行く気になったのだが、もとよりアバンチュールである。しかし、日本にいて銀座をブラつくモダンボーイになるよりはパリのモンマルトルでアパッシュになった方がまだしも気が利いているかも知れない、これはジョークだが、私はまったく駒の出ないことを心から祈っているのだ。
 このアンチ・ビジネスマンは船へでも乗らない限り、一向まだ西洋に出かけるような気がしないのだ。しかし、道草を食い過ぎて乗り遅れるようなことがあっては大変だから、ゆっくり原稿も書いていられない始末だ。
 出発前に出来るだけ世間の義埋を片付けて行きたいと思ったが、思うばかりで一向にハカがゆかず、グズグズしている間に東京駅を出発することになってしまった。では諸君御機嫌よう。 Au revoir![#底本「An revoir」] (一九二八年一月)

入力者注1:題名に使われている「え゛」は底本では「え」に濁点の一字。題名は、仏語 ve'rite'、ラテン語 veritas (共に真実の意味)辺りに由来すると思う。
入力者注2:文中、「同行の子供」というのは、辻潤と伊藤野枝との間に生まれた長男、辻一(つじまこと。1920−1975)のことである。彼は当時静岡県の中学生であった。ここに述べられて居る通り、彼は絵描きになりたくて、学校を中退してパリに連れていって貰った訳であるが、このパリ時代が、彼と辻潤が長時間一緒に暮らした唯一の時代である。彼はルーブルなどで実物の絵に接して、絵描きになることをあきらめた、しかし、戦後自分で書いた略歴に、絵描きのような職業をして現在に至ると書いて居るように、美しい絵を書く画家でもあった。また、すぐれた詩人、文明批評家でもあり、登山、スキー、岩魚釣り、ギターなど多彩な才能を示した人物でもあった。私見だが、辻潤を知るためには、辻一が辻潤について書いた文章は必須のものである。しかし彼は父親辻潤に言及されることを嫌い、その遺言は、辻潤と同じ墓に葬ってくれるなであった。


底本:「辻潤著作集1 絶望の書」オリオン出版社
   1969(昭和44)年11月30日初版発行
※表現のおかしい箇所は、「辻潤選集 玉川新明編」五月書房、1981(昭和56)年10月11日初版を参照して訂正した。
入力:et.vi.of nothing
校正:et.vi.of nothing
1999年1月24日公開
1999年9月6日修正
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