な人民です。この手合が馬を追いながら生活《くらし》を営《たて》る野辺山が原というのは、天然の大牧場――左様《さよう》さ、広さは三里四方も有ましょうか、秣《まくさ》に適した灌木《かんぼく》と雑草とが生茂《おいしげ》って、ところどころの樹蔭《こかげ》には泉が溢《あふ》れ流れているのです。ここへ集るものは、女ですら克《よ》く馬の性質を暗記している位。男が少年のうちからして乗馬の術に長《た》けているのは、不思議でもなんでも有ません。土地の者の競馬好と来ては――そりゃあ、もうこの手合が酒好なと同じように。
こういう土地柄ですから、女がどんな労働をしているか、大凡《おおよそ》の想像はつきましょう。男を助けて外で甲斐々々《かいがい》しく働く時の風俗は、股引《ももひき》、脚絆《はばき》で、盲目縞《めくらじま》の手甲《てっこう》を着《は》めます。冠《かぶ》りものは編笠です。娘も美しいと言いたいが、さて強いと言った方が至当で、健《すこやか》な活々《いきいき》とした容貌《おもざし》のものが多い。
海の口村が産馬地《うまどこ》という証拠には、一頭や二頭の家養をしないものは無いのでも知れましょう。
何がこの手合の財産かなら、無論、馬です。
清仏《しんふつ》戦争の後、仏蘭西《フランス》兵の用いた軍馬は吾陸軍省の手で買取られて、海を越して渡って来ました。その中の十三頭が種馬として信州へ移されたのです。気象勇健な「アルゼリイ」種の馬匹《ばひつ》が南佐久の奥へ入りましたのは、この時のことで。今日一口に雑種と称えているのは、専《おも》にこの「アルゼリイ」種を指したものです。その後、亜米利加《アメリカ》産の浅間号という名高い種馬も入込みました。それから次第に馬匹の改良が始まる、野辺山が原の馬市は一年増に盛大になる、その噂さがなにがしの宮殿下の御耳にまで届くようになりました。殿下は陸軍騎兵附の大佐で、かくれもない馬好でいらせられるのですから、御|寵愛《ちょうあい》の「ファラリイス」という亜刺比亜《アラビア》産を種馬として南佐久へ御貸付になりますと、さあ、人気が立ったの立たないのじゃ有ません。「ファラリイス」の血を分けた当歳が三十四頭という呼声になりました。殿下の御|喜悦《よろこび》は何程《どんな》でございましたろう――とうとう野辺山が原へ行啓を仰出《おおせいだ》されましたのです。
壱
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