す。書生を愛した豐田さんの家には幾人《いくたり》となく身を寄せた同郷の青年があつて、その一人々々の言つたこと爲したことが幼い私の上に働きかけたことや、あるひは豐田さんの家は一頃それらの人達の一小|倶樂部《クラブ》を見る趣を成して夜になると私も土藏の中の部屋に机を並べ、同じ洋燈《ランプ》の下に集り、話を聞き、一緒に勉強し、どうかすると制《おさ》へきれないほどの居眠りが出て年長《としうへ》の人達からよく惡戲されたことなど、御話したいと思ふことはいろ/\ある。私は自分の机の上――墨汁《すみ》やインキで汚れたり小刀で刳《ゑぐ》り削られたりした机の上の景色、そこに取出す繪、書籍、雜誌などのことを精《くは》しく御話して見たら、それだけでも自分の少年時代を引出すに十分だらうとは思ひます。私は貴女に年老いた漢學者のことを御話しましたらう。豐田さんの家の奧二階でしばらく暮したあの老夫婦のこと、私が英學を始めた時分のこと、それから私の十三の年に父は郷里の方で死にましたこと、その前に父から私に寄《よこ》した手紙の中には古い歌などを引合に出して寸時も忘れることの出來ないといふやうな濃情の溢れた言葉が書き連ねてあつたこと、それからそれへと幼い日のことを辿つて見ると書くべきことは多くありますが、こゝで筆を止めます。
私は母やお牧に抱かれた頃から始めて、婦人の手を離れるとは言へないまでも、すくなくも獨立の出來る頃まで斯の手紙を持つて行きたいと思ひました。婦人に對する少年らしい一種の無關心――左樣いふ時が一度私には來ました。私は側目《わきめ》もふらずに、錯々《せつせ》と自分の道を歩き始めた時がありました。そこまで御話しなければ、斯の手紙を書き始めた最初の目的は達したとも言へません。しかし今はそれをする時がありません。
私は遠い旅を思ひ立つて、長く住み慣れた家を離れようとして居ます。私が御地を去つて東京へ引移らうとした時、貴女のお母さんの家へ小さな記念の桐苗を殘して來たことが丁度胸に浮びます。貴女の御存じない子供は三人も斯の家で生れ、貴女の友達であつた妻もこゝで亡くなりました。今夜は斯の家で送る最終の晩です。旅の荷物やら引越の仕度やらゴチヤ/\した中で、子供は皆な寢沈まりました。
[#地から2字上げ]「微風」――終
底本:「藤村全集第五卷」筑摩書房
1967(昭和42)年3月10日初版発行
1978(昭和53)年8月30日愛蔵版発行
初出:「婦人畫報」
1912(明治45)年5月〜1913(大正2)年4月
※「幼き日」は、後に著者自身により、「生ひ立ちの記」と改題された。経緯は以下の通りである。「幼き日」は1912(明治45)年5月から1913(大正2)年4月にかけて婦人画報に掲載された。初めは、「ある婦人の與ふる書」の原題で掲載、「七」から「幼き日」に改題した。後に全集が発行されるとき、「生立ちの記」さらに文庫発行の際に「生ひ立ちの記」に改題された。
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2004年8月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全10ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング