、彼女の記憶から離せないものの一つです。顏見世の晩で、長い柄のついた燭臺に照らして見せる異樣な人の顏、異樣な鬘《かづら》、異樣な衣裳、それを私はお牧の背中から眺めました。初めて見た芝居は、私の眼には唯ところ/″\光つて映つて來るやうなものでした。丁度、眞闇《まつくら》なところに動《ゆら》ぐ不思議な人形でも見るやうに。
 これほど親しいお牧では有りましたが、しかし彼女の皹《あかぎれ》の切れた指の皮の裂けたやうな手を食事の時に見るほど、可厭《いと》はしいものも有りませんでした。お牧の指が茶碗の縁に觸ると、もう私は食へませんでした。子供の潔癖は、特に私には酷《はなはだ》しかつたのです。お牧ばかりでは有りません。私の直ぐ上は銀さんといふ兄貴で、この銀さんが洗手盥《てうづだらひ》を使つた後では私は面《かほ》も洗へませんでした。銀さんは又、わざ/\私を嫌がらせようとして、面白半分に盥の中へ唾を吐いて見せたりなどしたものでした。
 私の生れた家には太助といふ年をとつた家僕も居りました。この正直な、働くことの好きな、獨身者《ひとりもの》の老爺《ぢいさん》は、まるで自分の子か孫のやうに私を思つて呉れまし
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