、青い蔕《へた》の附いた空《むだ》な實が落ちるまで、私達少年の心は何を見ても退屈しませんでした。
お牧は井戸から水を擔いで土藏について石段を上つて來ます。斯の柿の樹のあるところから、更に石段を上つて母屋の勝手口へ行くまでが、彼女の水汲に通ふ路でした。その邊は舊本陣時代の屋敷跡といふことでしたが、私が覺えた頃は既に桑畠で、林檎や桐などが畠の間に植ゑてありました。隣の石垣の上には高い壁が日に映つて見えました。それがお文さんの家でした。
私達が子供の時分には、妙に暗い世界が横たはつて居りました。多勢村のものが寄集まつて一人の眼隱した男を取圍《とりま》いて居る光景《ありさま》を一寸想像して見て下さい。激昂した衆人の祈祷の中で、その男の手にした幣帛《ぬさ》が次第に震へて來ることを想像して見て下さい。其時は早やある狐の乘移つたといふ時で、非常に權威ありげな聲で、神の御告といふものを傳へます。どうかすると斯の狐の乘移つた人は遠い森を指して飛び走つて行くことも有りました。私は又、村の小學校で、狐がついたといふ生徒の一人を目撃しました。その少年は顏色も變り手足を震はして居ました……
斯ういふ不思議なことが別に怪まれずにあるやうな、迷信の深い空氣の中で、私は子供の時を送つたのです。何等かの自然の現象で一寸解釋のつきかねるやうなことは、知らない生物《いきもの》の世界の方へそれを押しつけてありました。山には狼の話が殘り、畠には狢《むじな》や狸が顯はれ、暗くなれば夜鷹だの狐だのの鳴聲のするのが私の故郷でした。それほど私達の幼少《をさな》い時の生活は禽獸《とりけもの》の世界と接近したものでした。蜂の種類も多くありました。殊に地蜂と言つて、五層も六層も土の中に巣を造るのは、土地で賞美される食料の一つでした。兄達は蛙を捉へて來て、その皮を剥ぎ、逆さに棒に差し、地蜂の親の餌を探しに來るのを待受けたものです。蛙の肉に附けて置いた紙の片《きれ》で、それを咬《くは》へて飛んで行く蜂の行方を眺めると、巣の在所《ありか》が知れました。小鳥の種類の豐富なことも故郷の山林の特色です。黐《もち》や網で捕れる鶫《つぐみ》、鶸《ひは》の類はおびたゞしい數でした。雀などは小鳥の部にも數へられないほどです。子供ですら馬の尻尾の毛で雀の羂《わな》を造ることを知つて居ました。
私達は、同じ年頃の子供ばかりで遊ぶ時には、まだそれほど遠く行きませんでした。でも裏の田圃道に出て、高い樹木の上の方に小鳥の囀るのを聞くのは樂みでした。田圃|側《わき》には『スイコギ』の葉を垂れたのが有りました。それを採つて、鹽もつけずに食ひました。村の學校のあつた小山の下のところには細い谷川が流れて居ます。そこへ私はお牧から借りた笊《ざる》を持つて行つて鰍《かじか》をすくつたことも有ります。お文さんも腕まくり、裾からげで、子供らしい淡紅色《ときいろ》の腰卷まで出して、石の間に隱れて居る鰍を追ひました。
何時の間にか私は斯の隣の家の娘と二人ぎり隱れるやうな場所を探すやうに成りました。私達は桑畠の間にある林檎の樹の下を歩き又は玄關から細長い廂風《ひさしふう》の小座敷を通り拔けて、上段の間の横手に坪庭の梨の見えるところへ行きました。すると極りで、若い嫂が私達を探しに來ました。
お牧、お霜婆、斯の手紙には私は主に少年の眼に映じた婦人のことを貴女に書く積りですから、その順序として幼少《をさな》い隣の家の娘のことを御話するのです。有體《ありてい》に言へば、私は女といふものに初めて子供らしい情熱を感じました。私はお文さんを堅く抱締めたこともあります。斯の子供らしさは、近所の他の家の娘にも起りました。私は三日ばかり激しい情熱に苦められたことを覺えて居ます。尤もその娘のことは直と忘れて了ひましたが……
ある日、私はお文さんに誘はれて隣の家へ遊びに行きました。酒屋の香氣《にほひ》のする庭を通り拔けて、藏造りになつた二階の部屋へ上つて見ました。隣とはよく往來《ゆきゝ》をしましたが、そんなに奧の方まで連れられて行つたのは私には初めてです。丁度そこへお文さんの兄さんの道さんがやつて來ました。道さんはお文さんや私より二ツ三ツ年長《うへ》の少年で、村の學校でも評判な好く出來る生徒でした。
其日まで私は夢中でお文さんと遊んで居て、第三者といふものの有ることを知りませんでした。お文さんの部屋で、道さんと一緒に成つて見て、それが解つて來ました。私は唯道さんに見られたといふだけで、何となく少年らしい羞恥を感じました。それきり私はお文さんを離れて、今度は道さんだの、それから他の男の兒と遊ぶやうに成りました。
お文さんは相變らず吾家《うち》へ手習に通ひました。しかし私が道さん達の仲間入をするやうに成つてからは、以前のやうに彼女と親しくしま
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