をひろげていた。そこへ三郎が研究所から帰って来た。
 「あ――一太。」
 三郎はすぐにそれへ目をつけた。読みさしの新聞を妹やお徳の前に投げ出すようにして言った。
 「こんな、罪もない子供までも殺す必要がどこにあるだろう――」
 その時の三郎の調子には、子供とも思えないような力があった。
 しかし、これほどの熱狂もいつのまにか三郎の内を通り過ぎて行った。伸び行くさかりの子供は、一つところにとどまろうとしていなかった。どんどんきのうのことを捨てて行った。
 「オヤ――三ちゃんの『早川賢』もどうしたろう。」
 と、ふと私が気づいたころは、あれほど一時大騒ぎした人の名も忘れられて、それが「木下《きのした》繁《しげる》、木下繁」に変わっていた。木下繁ももはや故人だが、一時は研究所あたりに集まる青年美術家の憧憬《どうけい》の的《まと》となった画家で、みんなから早い病死を惜しまれた人だ。
 その時になって見ると、新しいものを求めて熱狂するような三郎の気質が、なんとなく私の胸にまとまって浮かんで来た。どうしてこの子がこんなに大騒ぎをやるかというに――早川賢にしても、木下繁にしても――彼らがみんな新しい人であるからであった。
 「とうさんは知らないんだ――僕らの時代のことはとうさんにはわからないんだ。」
 訴えるようなこの子の目は、何よりも雄弁にそれを語った。私もまんざら、こうした子供の気持ちがわからないでもない。よりすぐれたものとなるためには、自分らから子供を叛《そむ》かせたい――それくらいのことは考えない私でもない。それにしても、少年らしい不満でさんざん子供から苦しめられた私は、今度はまた新しいもので責められるようになるのかと思った。
 末子も目に見えてちがって来た、堅肥《かたぶと》りのした体格から顔つきまで、この娘はだんだんみんなの母親に似て来た。上《うえ》は男の子供ばかりの殺風景な私の家にあっては、この娘が茶の間の壁のところに小乾《さぼ》す着物の類も目につくようになった。それほど私の家には女らしいものも少なかった。
 今の住居《すまい》の庭は狭くて、私が猫《ねこ》の額《ひたい》にたとえるほどしかないが、それでも薔薇《ばら》や山茶花《さざんか》は毎年のように花が絶えない。花の好きな末子は茶の間から庭へ降りて、わずかばかりの植木を見に行くことにも学校通いの余暇を慰めた。今の住居《
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