み》を持ち出して、よく延びやすい自分の爪《つめ》を切った。
 どうかすると、私は子供と一緒になって遊ぶような心も失ってしまい、自分の狭い四畳半に隠れ、庭の草木を友として、わずかにひとりを慰めようとした。子供は到底母親だけのものか、父としての自分は偶然に子供の内を通り過ぎる旅人に過ぎないのか――そんな嘆息が、時には自分を憂鬱《ゆううつ》にした。そのたびに気を取り直して、また私は子供を護《まも》ろうとする心に帰って行った。

 安い思いもなしに、移り行く世相をながめながら、ひとりでじっと子供を養って来た心地《ここち》はなかった。しかし子供はそんな私に頓着《とんじゃく》していなかったように見える。
 七年も見ているうちには、みんなの変わって行くにも驚く。震災の来る前の年あたりには太郎はすでに私のそばにいなかった。この子は十八の歳《とし》に中学を辞して、私の郷里の山地のほうで農業の見習いを始めていた。これは私の勧めによることだが、太郎もすっかりその気になって、長いしたくに取りかかった。ラケットを鍬《くわ》に代えてからの太郎は、学校時代よりもずっと元気づいて来て、翌年あたりにはもう七貫目ほどの桑を背負いうるような若者であった。
 次郎と三郎も変わって来た。私が五十日あまりの病床から身を起こして、発病以来初めての風呂《ふろ》を浴びに、鼠坂《ねずみざか》から森元町《もりもとちょう》の湯屋まで静かに歩いた時、兄弟《きょうだい》二人《ふたり》とも心配して私のからだを洗いについて来たくらいだ。私の顔色はまだ悪かった。私は小田原《おだわら》の海岸まで保養を思い立ったこともある。その時も次郎は先に立って、弟と一緒に、小田原の停車場まで私を送りに来た。
 やがて大地震だ。私たちは引き続く大きな異変の渦《うず》の中にいた。私が自分のそばにいる兄妹《きょうだい》三人の子供の性質をしみじみ考えるようになったのも、早川《はやかわ》賢《けん》というような思いがけない人の名を三郎の口から聞きつけるようになったのも、そのころからだ。
 毎日のような三郎の「早川賢、早川賢」は家のものを悩ました。きのうは何十人の負傷者がこの坂の上をかつがれて通ったとか、きょうは焼け跡へ焼け跡へと歩いて行く人たちが舞い上がる土ぼこりの中に続いたとか、そういう混雑がやや沈まって行ったころに、幾万もの男や女の墓地のような焼け跡から
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