らない」というので、国府津の前川村の方へ引き移ったのだ。丁度文学界を出す時分から、私も一時漂泊の生活を送ったが、その以前に私は巌本君に勧められて、明治女学校で教えていた。北村君もそう収入が無いと思ったから、僅かばかりの自分の学校の仕事を北村君に譲って、私は旅へ出懸けたりした。北村君は国府津へ移ってからも矢張り其処から、明治女学校へ教えに通っていた。或る時私に、「幸田という人は仕合者《しあわせもの》だね」と云って、当時の文学者としては相応な酬いを受けていた露伴氏の事を、羨《うらや》んで話した事があったが、それほど貧しく暮さなければならない境涯で、そのためには異人の仕事をしたり、それから『平和』という宗教雑誌を編輯したりした事があるように記憶している。国府津の寺は、北村君の先祖の骨を葬ってある、そういう所縁《ゆかり》のある寺で、彼処では又北村君の外の時代で見られない、静かな、半ば楽しい、半ば傷ついている時が来たようであった。「国府津時代は楽しゅうござんした」とよく細君が北村君の亡くなった後で、私達に話した事があった。『蝶の歌』が出来たのもあの海岸だし、それから『一夕観』などを書いたのも彼処だった。あの『一夕観』なんかになると、こう激し易かったり、迫り易かったりした北村君が、余程広い処へ出て行ったように思われる。けれども惜しい事に、そういう広い処へ出て行った頃には、身体の方はもう余程弱っていた。国府津時代に書いたものは皆味の深いものばかりだが、然し余り長いものはもう書けなかった。エマルソンの評伝の稿を起したのも、彼処の寺だ。それから、『五縁』、『十夢』、大きな史劇の計画なぞを立てていたのも、彼処だ。この国府津時代に書きつけた、ノオト・ブックを後で見たが、自分はもうどうにもこうにも仕様が無くなったから、一切の義務なんかというものを棄てて了って、西行のような生活でも送って見たい、というようなことが書きつけてある所もあり、自分の子供にはもう決して文学なぞは遣らせない、という事なぞを書いたものがあった。それから何も物の書けないような可傷《いたま》しい状態になって、数寄屋橋の煙草屋の二階へ帰る事になった。北村君と阿母《おっか》さんとの関係は、丁度バイロンと阿母さんとの関係のようで、北村君の一面非常に神経質な処は、阿母さんから伝わったのだ。それに阿母さんという人が、女でも煙草屋の店に坐って、頑張っていようという人だから、北村君の苛々《いらいら》した所は、阿母さんには喜ばれなかった。暫《しばら》く病んでいた後で、北村君が自殺を企てた当時の心境は、私は『春』の中でいくらか辿《たど》って見た。それを家の人に見付かって、病院へ送られて、兎に角傷は癒った。細君も心配して、も一度芝公園の家を借りて、それには友達ながらも種々心配して呉《くれ》た人があって、其処で養生した。丁度彼れ是れ半年近くも、あの公園の家で暮したろうか。もう余程違った頭脳《あたま》の具合だったから、なるべく人にも会わなかったし、細君も亦客なぞ断るという風であった。二度目に其処へ移ってからは、もう殆んど筆を執るような人ではなかった。巌本君が心配して、押川方義氏を連れて、一度公園の家を訪ねて、宗教事業にでも携わったらどうか、という話をしたという事を聞いたが、後で私が訪ねて行くと、「巌本君達が来て、宗教の話をして呉れたが、どうしても僕には信じるという心が起らないからね」と、そんな風に話した事もあった。北村君もそんな風になった以上は仕方が無いし、吾々は吾々で、又更に新しく進んで見ようという心持になって、文学界の連中は各自《めいめい》思い思いに歩き始めた時であった。たまに訪ねて行くと、奥の方の小さい、薄暗いような部屋に這入っていて、「滅多に人にも会わないのだが、君等だから会うのだ」と云って、突いて癒った咽喉《のど》の傷などを、出して見せた。「何しろどうもこの傷の跡があるんだからね」なぞと云って、頻《しき》りにその傷の跡を気にしていた。戸川君と一緒に訪ねた時には、何でもエマルソンの本が出来た時で、細君が民友社から届いた本を持って来て、私に見せたが、北村君はその本を手に取って見たという位で、中を開けて見る気も無いという風であった。細君はもう夜中も、夫の様子に注意するという風になって、非常に気を付けて看護をしたのであったが、丁度五月十六日の晩の月夜に、自分の病室を脱け出して、家の周囲《まわり》にある樹に細引を掛けて、それに縊《くび》れて二十七歳で死んだ。その素質に於いては稀《まれ》に見る詩人であり、思想家であった、北村君の惜む可き一生は斯うして終った。
北村君は明治元年に小田原で生れた人だ。阿父《おとう》さんは小田原の士族であった。まだ小さな時分に、両親は北村君を祖父母の手に託して置いて、東京に出た。北村君は十一の年までは小田原にいて、非常に厳格な祖父の教育の下に、成長した。祖母という人は、温順な人ではあったが、実の祖母では無くて、継祖母であった。北村君自身の言葉を借りて云えば、不覊磊落《ふきらいらく》な性質は父から受け、甚だしい神経質と、強い功名心とは母から受けた。斯ういう気風は少年の時からあって、それが非常にやかましい祖父の下に育てられ、祖母は又自分に対する愛情が薄かったという風で、後に成って気欝病を発した一番の大本は其処から来たと自白して居る。明治十四年に東京へ移って、そして途中から数寄屋橋の泰明小学校へ這入った。透谷という号は、この数寄屋橋のスキヤから来たのである。私も小学校の課程は、北村君と同じ泰明小学校で修めた者だが、北村君よりはその弟の丸山古香君の方を、その時代にはよく覚えている。北村君は方々の私立学校を経て、今の早稲田大学が専門学校と云った時代の、政治科にいた事もあったと聞いた。当時の青年はこう一体に、何れも政治思想を懐くというような時で、北村君もその風潮に激せられて、先ず政治家になろうと決したのだが、その後一時非常に宗教に熱した時代もあった。北村君のアンビシャスであった事は、自ら病気であると云ったほど、激しい性質のものらしかった。そういう性質はずっと後になっても、眉宇《びう》の間に現われていて、或る人々から誤解されたり、余り好かれなかったりしたというのは、そんな点の現われた所であったろうと思う。まだ二十位の青年の時代に或る時は東洋の救世主を以て任ずるような空想な日を送って、後になって、余り自分の空想が甚だしかった事と、その後に起る失望、落胆の激しい事に驚いた、と書いたものなぞもある。或る時は又一個の大哲学家となって、欧洲の学者を凹ませようと考えた事もあって、その考えは一年の間も続いて、一分時間も脳中を去らなかった。こういう妄想を、而《しか》も斯ういう長い年月の間、頭脳《あたま》の裏《うち》に入れて置くとは、何という狂気染《きちがいじ》みた事だろう、と書いたものなぞがあるが、頭脳が悪かったという事は、時々書いたものにも見えるようである。北村君はある点まで自分の Brain Disease を自覚して居て、それに打勝とう打勝とうと努めた。北村君の天才は恐るべき生の不調和から閃き発して来た。で、種々な空想に失望したり、落胆したりして、それから空しい功名心も破れて――北村君自身の言葉で言えば「功名心の梯子《はしご》から落ちて」――そうして急激な勢で文学の方へ出て来るようになったのである。北村君は石坂昌孝氏の娘に方《あた》る、みな子さんを娶《めと》って、二十五歳(?)の時には早や愛児のふさ子さんが生れて居た。(斯の早婚は種々な意味で北村君の一生に深い影響を及ぼした。)北村君は思い詰めているような人ではあったが、一方には又磊落な、飄逸《ひょういつ》な処があって、皮肉も云えば、冗談も云って、友達を笑わすような、面白い処もあった。前に出版した透谷集の方には写真を出し、後に出した透谷全集には弟の丸山君の書いた肖像画を出したのであるが、北村君をよく現わすようなものが、残っていないのは残念である。北村君は大変声の涼しいような人で、私は北村君の事を思い出す度に、種々な書いたものを読んで聞かせたり、その時々に話したりした声が、今だに耳についているような気がする。晩年には服装《なり》なぞも余り構わなかったし、身体は何方《どちら》かと云えば痩せぎすな、少し肩の怒った人で、髪なぞは長くしていた。北村君の容貌の中で一番忘れられないのは、そのさもパッションに燃えているような、そして又考え深い眼であった。
明治年代に記憶すべき、大きな出来事の一つは、士族の階級の滅亡である。その階級が有《も》てる凡《すべ》てのものの滅びて行ったことである。その士族の子孫の中から北村君のような物を考える人が生れて来たということは私には偶然では無いように思われる。猶《なお》、新時代の先駆者たりし北村君に就いては、話したいと思うことは多くあるが、ここにはその短い生涯の一瞥《いちべつ》にとどめておく。
[#地から1字上げ](大正二年四月)
底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
初出:「文章世界」
1912(大正1)年10月
※初出情報は「藤村全集第6巻」(筑摩書房)に拠った。
入力:kamille
校正:鈴木厚司
2004年10月31日作成
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