山と留山とは絶対に人民のはいることを許さない。しかし明山は慶長年間より享保八年まで連綿として人民が木租を納め来たった場所であるからと言って、自由に入山《いりやま》伐木を許し、なお、木租の上納を免ずる代償として、許可なしに五木を伐採することを禁じたのである。
こんな動かせない歴史がある。半蔵はそれらの事実から、さらにこの地方の真相を探り求めて、いわゆる木曾谷中の御免檜物荷物《ごめんひのきものにもつ》なるものに突き当たった。父吉左衛門が彼に残して行った青山家の古帳にも、そのことは出ている。それは尾州藩でも幕府直轄時代からの意志を重んじ、年々山から伐り出す檜類のうち白木六千駄を谷中の百姓どもに与えるのをさす。それを御免荷物という。そのうちの三千駄は檜物御手形《ひのきものおてがた》ととなえて人民の用材に与え、残る三千駄は御切替《おきりか》えととなえて、この分は追い追いと金に替えて与えた。彼が先祖の一人《ひとり》の筆で、材木通用の跡を記《しる》しつけた御免荷物の明細書によると、毎年二百駄ずつの檜、椹《さわら》の類は馬籠村民にも許されて来たことが、その古帳の中に明記してある。尾州藩ですらこのとお
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