さつ》に来たので、しばらく二人の話は途切れた。これは半蔵の長男、これは三男とおまんに言われて、宗太や森夫も改まった顔つきをしながら客の前へお辞儀に出る。
「暮田さんは信州岩村田の御出身でいらっしゃるそうですね。そういえば、どっか山国のおかたらしい。」とおまんは客に言って、勝手の方から膳《ぜん》を運ぶお粂を顧みながら、「こんな山家で何もおかまいはできませんが、まあ、ごゆっくりなすってください。」
 お粂が持って来て客と父との前に置いた膳の上には、季節がらの胡瓜《きゅうり》もみ、青紫蘇《あおじそ》、枝豆、それにきざみずるめなぞを酒のさかなに、猪口《ちょく》、割箸《わりばし》もそろった。おまんがそれを見て部屋から退くころには、正香はもうあぐらにやる。
「どれ、あの記念の扇子を暮田さんにお目にかけるか。」
 と半蔵は言って、師岡正胤らと共に中津川の方で書いたものを正香の前にひろげて見せた。平田|篤胤《あつたね》没後の門人らの思い思いに記《しる》しつけた述懐の歌がその扇子の両面にある。辛《から》い、甘い、限り知られない味わいをふくみ持った世のありさまではあるぞとした意味のものもある。こうして互いにつつがなくめぐりあって見ると、八年は夢のような気がするとした意味のものもある。おくれまいと思ったことは昔であって、今は人のあとにも立ち得ないというような、そんな思いを寄せてあるのは師岡正胤だ。
「へえ、師岡がこんな歌を置いて行きましたかい。」
 と言いながら、正香はその扇面に見入った。過ぐる文久三年、例の等持院にある足利《あしかが》将軍らの木像の首を抜き取って京都三条|河原《がわら》に晒《さら》し物にした血気さかんなころの正香の相手は、この正胤だ。その後、正香が伊那《いな》の谷へ来て隠れていた時代は、正胤は上田藩の方に六年お預けの身で、最初の一年間は紋付を着ることも許されず、ただ白無垢《しろむく》のみを許され、日のめも見ることのできない北向きの一室にすわらせられ、わずかに食事ごとの箸先を食い削ってそれを筆に代えながら、襦袢《じゅばん》の袖口《そでぐち》から絞る藍《あい》のしずくで鼻紙に記《しる》しつける歌日記を幽閉中唯一の慰めとしていたという。先帝|崩御《ほうぎょ》のおりの大赦がなかったら、正胤もどうなっていたかわからなかった。この人のことは正香もくわしい。
 その時、半蔵は先輩に酒をすすめながら、旧庄屋の職を失うまでの自分の苦《にが》い経験を、山林事件のあらましを語り出した。彼に言わせると、もしこの木曾谷が今しばらく尾州藩の手を離れずにあって、年来の情実にも明るい人が名古屋県出張所の官吏として在職していてくれたら、もっと良い解決も望めたであろう。今のうちに官民一致して前途百年の方針を打ち建てて置きたいという村民総代一同の訴えもきかれたであろう。この谷が山間の一|僻地《へきち》で、舟楫《しゅうしゅう》運輸の便があるでもなく、田野耕作の得があるでもなく、村々の大部分が高い米や塩を他の地方に仰ぎながらも、今日までに人口の繁殖するに至ったというのは山林あるがためであったのに、この山地を官有にして人民一切入るべからずとしたら、どうして多くのものが生きられる地方でないぐらいのことは、あの尾州藩の人たちには認められたであろう。いかんせん、筑摩《ちくま》県の派出官は土地の事情に暗い。廃藩置県以来、諸国の多額な藩債も政府においてそれを肩がわりする以上、旧藩諸財産の没取は当然であるとの考えにでも支配されたものか、木曾谷山地従来の慣例いかんなぞは、てんで福島支庁官吏が問うところでない。言うところは、官有林規則のお請けをせよとの一点張りである。その過酷を嘆いて、ひたすら寛大な処分を嘆願しようとすれば、半蔵ごときは戸長を免職せられ、それにも屈しないで進み出る他の総代のものがあっても、さらに御採用がない。しいて懇願すれば官吏の怒りに触れ、鞭《むち》で打たるるに至ったものがあり、それでも服従しないようなものは本県聴訟課へ引き渡しきっと吟味に及ぶであろうとの厳重な口達をうけて引き下がって来る。その権威に恐怖するあまり、人民一同前後を熟考するいとまもなく、いったんは心ならずも官有林のお請けをしたのであった。
「一の山林事件は、百の山林事件さ。」
 と正香は半蔵の語ることを聞いたあとで、嘆息するように言った。


「暮田さん、せっかくおいでくだすっても、ほんとに、何もございませんよ。」
 と言いながら、お民も客のいるところへ酒をすすめに来た。彼女は客や主人の膳《ぜん》の上にある箸《はし》休めの皿《さら》をさげて、娘お粂が順に勝手の方から運んで来るものをそのかわりに載せた。遠来の客にもめずらしく思ってもらえそうなものといえば、木曾川の方でとれた「たなびら」ぐらいのもの。それを彼女
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