お民らに呼ばれても答える人ではなかった。享年五十六。五人もある子の中で彼の枕《まくら》もとにいたものは長男の宗太ばかり。お粂《くめ》ですら父の臨終には間に合わなかった。
その暁から降り出した雨はやみそうもない。裏藪《うらやぶ》の竹の葉にそそぐ音だけでも、一雨ごとにこの山里へ冬のやって来ることを思わせる。お民らが半蔵の枕もとに付いていてほのかな鶏の声をきいたころに、彼はすでにこの世の人ではなかったのであるが、時を置いて彼の顔をのぞきに行くたびに、雨に暗い空も明けて行き、青白い光線は東南の間にあたる高い窓からその部屋《へや》へさし入って来た。やがて皆のものがうち寄って半蔵のからだをぬぐい浄《きよ》めるころは、そこいらはもう朝だ。遺骸《いがい》は青い蓙《ござ》の上に横たわり、枕の位置も変わって見ると、病床もすでに死の床ではあったが、しかしお民らの目にはまだ半蔵がそこに眠っているかのようであった。
栄吉、清助、庄助、勝之助らは前後して木小屋に集まりつつあった。隣家からは二代目伊之助の顔も見えた。半蔵が二人の若い弟子、伏見屋の三郎と梅屋の益穂《ますほ》とがこんな時の役に立とうとして皆の間に立ちまじっているさまも可憐《かれん》であった。一刻も早く遺骸は他《よそ》へ移したい、こんな忌まわしい座敷牢《ざしきろう》の中には置きたくない、とは一同のものの願いであったが、さて母屋《もや》の方へ移すべきか、隠宅の静の屋の方へ移すべきかの話になると、各自意見もまちまちで相談は容易にまとまらなかった。母屋をえらびたいのは山々だが、現在医師の開業しているところを明け渡させるのはたとい二、三日でも故人の本意ではなかろうと言うものがある。そうかと言って、あの静の屋のような狭い小楼からお師匠さまの葬式が出せるかと言うものがある。この事は、拙斎自身の申し出で母屋と一決した。馬籠の庄屋と本陣問屋とを兼ねた最後の人を見送る意味からも、古い歴史のある記念の家をこころよく使用してもらいたいとは、拙斎が申し出であった。
雨は降ったりやんだりしているような日であったが、すこし小降りになった時を見て、半蔵の遺骸《いがい》には蓑《みの》をかけ、やがて木小屋から運び出されることになった。多感な光景がそこにひらけた。生前古い青山の家にはもはや用のないような人間だとよく言い言いしたその半蔵も変わり果てた姿となって、もう一度旧本陣の屋根の下へと帰って行ったのである。その旧主人の死体を蒲団《ふとん》ぐるみ抱きかかえながら木小屋から母屋《もや》へと持ち運んだのは、おもに下男佐吉の力であった。それには以前に出入りした百姓仲間の兼吉や桑作の手伝いもあった。宗太はじめ、三郎、益穂らはいずれも雨傘《あまがさ》をさしかけて、その前後を護《まも》って行った。
半蔵の死が馬籠以外の土地へも通知されて行くころには、近在から弔《くや》みを言い入れに集まる旧《ふる》い弟子たちもすくなくなかったが、その中でだれよりも先に急いで来たものは落合の勝重であった。
勝重が思い出の深い本陣屋敷に来て見た時は、師匠の遺骸はすでに奥の上段の間の隣り座敷に安置してあった。彼はまず青山の家族にあって、長い看護に疲れ顔なお民にも、七十八歳の高齢で義理ある子を先立てたおまんにも、それから宗太夫婦にも厚く弔みを述べた。奥座敷の方へも進んで行って、神葬の古式による清げな白木の壇の前にひざまずき、畳の上に額《ひたい》をすりつけて、もはやこの世の一切の悲しいや苦しいも越えているように厳粛《おごそか》な師匠の死顔を拝した。まだ棺もできては来ず、荒町の禰宜《ねぎ》の顔も見えなかったが、そこいらには馬籠町内の重立った人たちも集まっていた。埋葬の場処は、と勝重が宗太に尋ねると、家政改革後は倹約第一の場合ででもあるから、万福寺山腹に古くからある墓地の片すみをえらむことにして、そのことはすでに寺へも通じてあるという。これには勝重はひどく残念がって、なんとかしてもっと適当な場処を求めなるべく手厚く師匠を葬りたいと言い、墓地続きの寺の畠《はたけ》でも譲り受けられるなら、及ばずながらその費用等は自分ら弟子仲間で心配するとの意見をそこへ持ち出した。というのは、青山家の墓地も先祖代々のたくさんな墓石で埋《うず》められ、ほとほと割り込むすきもないことを勝重もよく知っていたからであった。
「どうも、お弟子が来て厄介《やっかい》なことを言い出したぞ。」
宗太の目がそれを言った。でも、こんなに父の死を惜しんでくれる人たちもあるというその熱い情《こころ》に動かされて、宗太も倹約一方の説を覆《くつがえ》し、結局勝重の意見をいれた。栄吉や清助は宗太の意を受けて、改めて埋葬の地を相するため雨の中を出かけた。
悲しい夜が来た。霊前には親戚《しんせき》旧知のものが集
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