あの先代がいまだに達者《たっしゃ》でいたら、どんなに今ごろは心を傷《いた》めたろうと言って見る未亡人のお富があり、日に一度は必ず隣家の木小屋を見回ることを怠らない番頭格の清助もある。季節がら、木曾の焼き米でも造ったおりは、まずお師匠さまへと言って、日ごろその青い香のするやつを好物にする半蔵がもとへ重詰めにして届けることを忘れないのもこの家族だ。
その足で勝重は旧本陣の方に見舞いを言い入れに行った。裏の木小屋まで行かないうちに、彼はお民にあって、師匠のことをたずねると、お民の答えには、この二、三日ひどく疳《かん》の起こっているようすであるとのこと。彼女は病人の看護も容易でないと言って、村の人たちへは気の毒でならないとの意味を通わせる。
「奥さん、」と勝重は言った。「酒はお師匠さまには禁物《きんもつ》でしょうが、ああして置いたら自然とおからだが弱りはしまいますまいか。いくら御謹慎中でも、すこしはお勧めした方がいい。そう思いましてね、今日はほんのすこしばかり落合の酒を持参して見ました。これは人には話さずに置いてください。あとで奥さんにお預けしてまいりますから、すこしずつ内証であげて見ていただきたい。」
そういう勝重が羽織のかげに隠し腰に着けている一つの瓢箪《ふくべ》をお民に出して見せ、それから勝手を知った木小屋の方へ行こうとしたので、お民はちょっと勝重の袖《そで》を引きとめて言った。
「勝重さん、うっかりうちのそばへは行かれません。ほんとに病人というものは油断がならないとわたしも思いましたよ。こないだも、うちがしきりに呼ぶものですから、何の気なしにわたしは格子の前へ行って立ったことがありました。お民、ちょっとおいで、ちょっとおいで、そんなことを言って、あの格子の内から手招きするじゃありませんか。どうでしょう、そのわたしの手をつかまえて力任せになかへ引きずり込もうとしました。あの時は、もうすこしでこの腕がちぎれるかと思いました。勝重さん、あなたも気をつけてくださいよ。」
座敷牢での朝夕はこんなに半蔵をさびしがらせるのだ。勝重は、さもあろうというふうにお民の話をきいた後、やがて木小屋の周囲《まわり》に人のないのを見すまして、例の荒い格子の前まで近づいた。
「敵が来る。」
師匠の声だ。それは全く外界との交渉も絶え果てたような人の声だ。その声がまず勝重の胸を騒がせる。
「お師匠さま、わたしでございます。勝重でございます。」
思いがけない弟子《でし》の訪れに、格子の内の半蔵もややわれに帰ったというふうではあった。苦髪楽爪《くがみらくづめ》とやら、先の日に勝重が見に来た時よりも師匠が髭《ひげ》の延び、髪は鶉《うずら》のようになって、めっきり顔色も青ざめていることは驚かれるばかり。でも、師匠は全く本性を失ってはいない。ややしばらく沈黙のつづいた後、
「勝重さん、わたしもこんなところへ来てしまった。わたしは、おてんとうさまも見ずに死ぬ。」
半蔵は荒い格子につかまりながらそれを言って、愛する弟子の顔をつくづくとながめた。
「そんなお師匠さまのようなことを言わないで……御気分が治まりさえすれば、いつでもあの静の屋の方へお帰りになれますぞ。その時は勝重がまたお迎えにあがります。みんな首を長くしてその日の来るのをお待ち申しています。時に、お師匠さま、ちょうど昔で言えば菊の酒を祝う季節もまいっておりますから、実は瓢箪《ふくべ》にお好きな落合の酒を入れまして、腰にさげてまいりました。しばらくお師匠さまも盃《さかずき》を手にはなさいますまい。」
勝重が半蔵の見ている前で、腰につけて来た瓢箪の栓《せん》を抜いて、小さな木盃に酒をつごうとした時、半蔵はじっと耳を澄ましながら細い口から流れ出る酒の音をきいていた。そして、コッ、コッ、コッ、コッというその音を聞いただけでも口中に唾《つば》を感ずるかのような喜び方だ。弟子の勧めるまま、半蔵は格子越しにそれをうけて、ほんの一、二|献《こん》しか盃を重ねなかったが、しかし彼はさもうまそうにそのわずかな冷酒を飲みほした。甘露《かんろ》、甘露というふうに。かつてこんなうまい酒を味わったことはないというふうにも。
看護するものが詰める別室の方には人の来るけはいもしたので、それぎり勝重は半蔵のそばを離れた。師匠と二人《ふたり》ぎりの時でもなければ、こんな話も勝重にはかわされなかったのである。しばらく別室に時を送った後、また勝重は半蔵を見に行こうとして、思わず師匠がひとり言を聞いた。
「勝重さんはどうした。勝重さんはいないか。いや、もういない……こんなところにおれを置き去りにして、落合の方へ帰って行った……師匠の気も知らないで、体裁のよいことばかり言って、あの男も化け物かもしれんぞ。」
その声を聞きつけると、勝重は木小
前へ
次へ
全123ページ中117ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング