しげりあふめり
この頃《ごろ》は夏野の草のうらぶれて風の音だにきかずもあるかな
たまさかの言の葉草もつまなくにたまるは袖《そで》の露にぞありける
しげりあふ夏山のまにゆく水のかくれてのみやこひわたりなむ
[#ここで字下げ終わり]
「あなた、そんなにつめていいんですか。」
 階下《した》から箱梯子《はこばしご》を登って、二間つづきの二階に寝ている伊之助を見に来たのは、妻のお富《とみ》だ。
「おれか、」と伊之助は答えた。「さっきからおれは半蔵さんの歌に凝ってしまった。こういうもので見ると、実にやさしい人がよく出ているね。」
「あの中津川のお友だちと、半蔵さんとでは、どっちが歌はうまいんでしょう。」
「お前たちはすぐそういうことを言いたがるから困る。すぐに、どっちがうまいかなんて。」
「こりゃ、うっかり口もきけない。」
「だって、まるで行き方の違ったものだよ。別の物だよ。」
「そういうものですかねえ。」
「おれも好きな道だから言うが、半蔵さんの歌は出来不出来がある。そのかわり、どれを見ても真情は打ち出してあるナ。言葉なぞは飾ろうとしない。あの拙《つたな》いところが作者のよいところだね。こう一口にかじりついた梨《なし》のような味が、半蔵さんのものだわい。」
 伊之助に言わせると、それが半蔵だ。これらの歌にあらわれたものは、実は深い片思いの一語に尽きる。そしてこれまで長く付き合って見た半蔵のしたこと、言ったこと、考えたことは、すべてその深い片思いでないものはない。あの献扇事件の場合にしても、半蔵の方で思うことはただただ多くの人に誤解された。土地のものなぞはそれを伝え聞いた時は気狂《きちが》いの沙汰《さた》としてしまった。
「まあ、こちらでいくら思っても、人からそれほど思われないのが半蔵さんだね。ごらんな、あれほどの百姓思いでも、百姓からはそう思われない。」
「半蔵さんは、そういう人ですかねえ。」
「ここに便《たよ》りを待つ恋という歌があるよ。隠れてのみやこひわたりなむ、としてあるよ。」
「まあ。」
「あの人はすべてこの調子なんだね。」
 伊之助夫婦はこんなふうに語り合った後、半蔵が馬籠に残して置いて行った家族のうわさに移った。石垣《いしがき》一つ界《さかい》にして隣家に留守居する人たちのことは絶えず伊之助の心にかかっていたからで。半蔵の妻お民が峠のお頭《かしら》を供に連れて一度飛騨まで訪《たず》ねて行ったのは、あれは前年の秋九月の下旬あたりに当たる。しばらく飛騨からの便りも絶え、きっと半蔵は病気でもしているに相違ないと言われたころのことだ。馬も通わないという嶮岨《けんそ》な加子母峠《かしもとうげ》を越して、か弱い足で二十余里の深い山道を踏んで行ったことは、夫を思う女の一心なればこそそれができた。よくよくあの旅は骨が折れたと見えて、あとになってお民が風呂《ふろ》でももらいに伏見屋へ通《かよ》って来るおりにはよくその話が出る。久津八幡《くづはちまん》は飛騨の宮村から八里ほど手前にあるところだという。その辺までお民がたどり着いた時、向こうから益田《ましだ》街道をやって来る一人の若者にあった。その若者が近づいて、ちょっとお尋ねしますが、もしやあなたさまは水無神社の宮司さまのところへ行かれる奥さまではありませんか、と声をかけたという。いかにも、そうです、と答えた時のお民は、自分を待ち受けていてくれる夫の仮寓《かぐう》の遠くないことを知り、わざわざ彼女を迎えに来てくれた土地の若者であることをも知った。それはそれは御苦労さま、というお民の言葉をうけて、わしは宮司さまから頼まれて迎えにまいった近所のものでございます、空身《からみ》ですから荷物を持って行きましょう、とその若者が言ってくれる、お民の方ではそれを断わって、主人も待って心配していようから、これからすぐ引き返して、「無事に来よるが」と伝えてください、と答えたとのことである。それからお民は八里ほど進んで、いかにも山深い宮峠のふもとの位置に、東北には木曾の御嶽山の頂《いただき》も遠く望まれるようなところに、うわさにのみ聞く水無川の河原を見つけたという。お民はそう長くも夫のそばにいなかったが、ちょうど飛騨の宮祭りのころであったことが一層彼女の旅を忘れがたいものにしているとか。
「なあ、お富。」とまた伊之助が枕の上で言い出した。「四年は長過ぎたなあ。」
「半蔵さんの飛騨がですか。」
「そうさ。」
「わたしに言わせると、はじめからあのお民さんを連れて行かなかったのは、うそでしたよ。」
「うん、それもあるナ。まあいい加減に切り揚げて、早く馬籠へお帰りなさるがいい。あの半蔵さんが四十代で隠居して、青山の家を子に譲って、それから水無神社の宮司をこころざして行ったと思ってごらん。忘れもしない――あの人がおれのとこ
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