、おれは今、そんなことを聞いてるんじゃない。つまり、どうすればいいかッて聞いてるんさ。」
「ですから、お里さんの言うには、まだ御祝言《ごしゅうげん》には間もあることだし、そのうちにはお粂の気も変わるだろうから、もうすこし様子を見るがいいと言うんですよ。そうはっきりした考えがお粂の年ごろにあるもんじゃない。お里さんはその意見です。気に入った小袖《こそで》でも造ってくれてごらん、それが娘には何よりだッて、おばあさんも言っていました。」
そんな話から、お民は娘のためにどんな着物を選ぼうかの相談に移って行った。幸い京都|麩屋町《ふやまち》の伊勢久《いせきゅう》は年来懇意にする染め物屋であり、あそこの養子も注文取りに美濃路《みのじ》を上って来るころであるから、それまでにあつらえる品をそろえて置きたいと言った。どんな染め模様を選んだら、娘にも似合って、すでに結納《ゆいのう》の品々まで送って来ている南殿村の人たちによろこんでもらえるだろうかなぞの相談も出た。
「そういうこまかいことは、お母《っか》さんやお前によろしく頼む。」
「あなたはそれだもの。なんにもあなたは相談してくださらない。」
「そんなお前のようなことを言ったって、おれだって、今――」
「そりゃ、あなたのいそがしいぐらい、知ってますよ。あなたのように一つ事に夢中になる人を責めたってしかたない。まあ、する事をしてください。お粂のしたくはお母さんと二人でよく相談します。あなたはいったい、わたしの話すことを聞いているんですか……」
それぎりお民は口をつぐんでしまって、半蔵のそばに畳を見つめたぎり、身動きもしなかった。長いこと夫婦は沈黙のままで相対していた。奥の部屋《へや》の方に森夫らのけんかする声を聞きつけて、やっとお民はその座を立ち、自分の子供を見に行った。いつものように夕飯の時が来ると、家のもの一同広い囲炉裏ばたに集まったが、旧本陣時代からの習慣としてその囲炉裏ばたには家長から下男までの定められた席がある。子供らの食事する席にも年齢《とし》の順がある。やがて隠居所から通《かよ》って来るおまんをはじめ、一日の小屋仕事を終わった下男の佐吉までがめいめいの箱膳《はこぜん》を前に控えると、あちらからもこちらからも味噌汁《みそしる》の椀《わん》なぞを給仕するお徳の方へ差し出す。お民は和助をそばに置いて、黙って食った。半蔵は継母の顔をながめ、姉娘のお粂が弟たちと並んでいる顔をながめ、それからお民の顔をながめて、これも黙って食った。その晩、彼は店座敷の方にいて、翌朝王滝へ出かけるしたくなぞしたが、ろくろく口もきかないでいるお民をどうすることもできなかった。実に些細《ささい》なことが人を傷《いた》ませる。彼に言わせると、享保以前までの彼の先祖はみな無給で庄屋を勤めて来たくらいで、村の肝煎《きもいり》とも百姓の親方とも呼ばれたものである。その家に生まれた甲斐《かい》には、せめてこういう時の役に立ちたいものだとは、日ごろの彼の願いであって、あえておろそかにするつもりで妻子を顧みないではないのにと、彼はこれまで用意した嘆願書を筑摩県本庁の方へ持ち出しうる日のことを考えて、わずかに心を慰めようとした。木曾谷中に留山と明山との区別もなかった時分の木租のことを万一本庁の官吏から尋ねられた場合にはと、自分で自分に問うて見る。それに答えることは、そう困難でもなかった。ずっと以前の山地に檜榑《ひのきくれ》二十六万八千余|挺《ちょう》、土居《どい》四千三百余|駄《だ》の木租を課せられた昔もあるが、しかもその木租のおびただしい運搬川出し等の費用として、人民の宅地その他の課税は差し引かれたも同様に給与せられたと答えることができた。その晩は、彼は香蔵からもらった手紙をも枕《まくら》もとに取り出し、あの同門の友人が書いてよこした東京の便《たよ》りを繰り返し読んで見たりなぞして、きげんの悪い妻のそばに寝た。
王滝行きの日は半蔵は早く起きて、活《い》きかえるような四月の朝の空気を吸った。お民もまたきげんを直しながら夫が出発のしたくを手伝うので、半蔵はそれに力を得た。彼は好きで読む歌書なぞを自分の懐中《ふところ》へねじ込んだ。というは、戸長の勤めの身にもわずかの閑《ひま》を盗み、風雅に事寄せ、歌の友だちを訪《たず》ねながら、この総代仲間の打ち合わせを果たそうとしたからであった。
「どうだ、お民。だれかに途中であって、どちらへなんて聞かれたら、おれはこの懐中《ふところ》をたたいて見せる。」
と彼は妻に言って見せた。そういう彼は袴《はかま》を着け、筆を携え、腰に笛もさしていた。
「まあ、おもしろい格好だこと。」とお民は言って、そこへ飛んで来た娘にも軽々とした夫のみなりをさして見せて、「お粂、御覧な、お父《とっ》さんは笛を腰にさ
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