の中に立ちながら、実に大胆に恋というものを肯定した本居宣長その人の生涯に隠れている婦人にまでその想像を持って行って見た。
しかし、半蔵が教部省を去ろうとしたのは、こんな同僚とのいきさつによるばかりではない。なんと言っても、以前の神祇局は師平田鉄胤をはじめ、樹下茂国《じゅげしげくに》、六人部雅楽《むとべうた》、福羽美静《ふくばよしきよ》らの平田派の諸先輩が御一新の文教あるいは神社行政の上に重要な役割をつとめた中心の舞台である。師の周囲には平田|延胤《のぶたね》、師岡正胤《もろおかまさたね》、権田直助《ごんだなおすけ》、丸山|作楽《さらく》、矢野|玄道《げんどう》、それから半蔵にはことに親しみの深い暮田正香《くれたまさか》らの人たちが集まって、直接に間接に復古のために働いた。半蔵の学友、蜂谷香蔵《はちやこうぞう》、今こそあの同門の道づれも郷里中津川の旧廬《きゅうろ》に帰臥《きが》しているが、これも神祇局時代には権少史《ごんしょうし》として師の仕事を助けたものである。田中|不二麿《ふじまろ》の世話で、半蔵がこんな縁故の深いところに来て見たころは、追い追いと役所も改まり、人もかわりしていたが、それでも鉄胤老先生が神祇官判事として在職した当時の記録は、いろいろと役所に残っていた。ちょうど草の香でいっぱいな故園を訪《おとな》う心は、半蔵が教部省内の一隅《いちぐう》に身を置いた時の心であった。彼はそれらの諸記録をくりひろげるたびに、あそこにだれの名があった、ここにだれの名があったと言って見て、平田一門の諸先輩によって代表された中世否定の運動をそこに見渡すことができるように思った。別当社僧の復飾に、仏像を神体とするものの取り除きに、大菩薩《たいぼさつ》の称号の廃止に、神職にして仏葬を執り行なうものの禁止に――それらはすべて神仏分離の運動にまであふれて行った国学者の情熱を語らないものはない。ある人も言ったように、従来|僧侶《そうりょ》でさえあれば善男善女に随喜|渇仰《かつごう》されて、一生食うに困らず、葬礼、法事、会式《えしき》に専念して、作善《さぜん》の道を講ずるでもなく、転迷開悟を勧めるでもなく、真宗以外におおぴらで肉食妻帯する者はなかったが、だいこく、般若湯《はんにゃとう》、天がい等の何をさす名か、知らない者はなかったのが一般のありさまであった。「されば由緒《ゆいしよ》もなき無格の小寺も、本山への献金によつて寺格を進めらるることのあれば、昨日にび色の法衣着たる身の今日は緋色《ひいろ》を飾るも、また黄金の力たり。堂塔の新築改造には、勧進《かんじん》、奉化《ほうげ》、奉加《ほうが》とて、浄財の寄進を俗界に求むれども、実は強請に異ならず。その堂内に通夜する輩《やから》も風俗壊乱の媒《なかだち》たり。」とはすでに元禄の昔からである。全国寺院の過多なること、寺院の富用無益のこと、僧侶の驕奢《きょうしゃ》淫逸《いんいつ》乱行|懶惰《らんだ》なること、罪人の多く出ること、田地境界訴訟の多きこと等は、第三者の声を待つまでもなく、仏徒自身ですら心あるものはそれを認めるほどの過去の世相であったのだ。
大きな破壊の動いた跡はそこにも驚かれるほどのものがある。利にさとい寺方が宮公卿《みやくげ》の名目で民間に金を貸し付け、百姓どもから利息を取り立てる行為なぞはまッ先に鎗玉《やりだま》にあげられた。仁和寺《にんなじ》、大覚寺をはじめ、諸|門跡《もんぜき》、比丘尼御所《びくにごしょ》、院家、院室等の名称は廃され、諸家の執奏、御撫物《おさすりもの》、祈祷巻数《きとうかんじゅ》ならびに諸献上物もことごとく廃されて、自今僧尼となるものは地方官庁の免許を受けなければならないこととなった。虚無僧《こむそう》の廃止、天社神道の廃止、修験宗《しゅげんしゅう》の廃止に続いて、神社仏閣の地における女人結界の場処も廃止された。この勢いのおもむくところは社寺領上地の命令となり、表面ばかりの禁欲生活から僧侶は解放され、比丘尼の蓄髪と縁付きと肉食と還俗《げんぞく》もまた勝手たるべしということになった。従来、祇園《ぎおん》の社も牛頭《ごず》天王と呼ばれ、八幡宮《はちまんぐう》も大菩薩と称され、大社|小祠《しょうし》は事実上仏教の一付属たるに過ぎなかったが、天海僧正《てんかいそうじょう》以来の僧侶の勢力も神仏|混淆《こんこう》禁止令によって根から覆《くつがえ》されたのである。
半蔵が教部省に出て仕えたのは、こんな一大変革のあとをうけて神社寺院の整理もやや端緒についたばかりのころであった。かねて神祇官時代には最も重要な地位に置かれてあった祭祀《さいし》の式典すら、彼の来て見たころにはすでに式部寮の所管に移されて、その一事だけでも役所の仕事が平田派諸先輩によって創《はじ》められた出発当時の意
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