は魚田《ぎょでん》にして出した。でも、こんな山家料理がかえって正香をよろこばせる。
「奥さんの前ですが、」と正香は一口飲みかけた盃を膳の上に置いて、「いつぞや、お宅の土蔵のなかに隠していただいた時、青山君が瓢箪《ふくべ》に酒を入れて持って来て、わたしに飲ませてくれました。あの時の酒の味はよほど身にしみたと見えて、伊那の方でも思い出し、京都や東京の方に行ってる時も思い出しました。おそらく、わたしは一生あの酒の味を忘れますまい。」
「あれから、十年にもなりますものね。」と半蔵も言った。
 お粂がその時、吸い物の向こう付《づ》けになるようなものを盆にのせて持って来た。お民はそれを客にすすめながら、
「蕨《わらび》でございますよ。」
「今時分、蕨とはめずらしい。」正香が言う。
「これは春先の若い蕨を塩漬《しおづ》けにして置いたものですが、塩をもどして、薄味で煮て見ました。御酒の好きな方には、お口に合うかもしれません。一つ召し上がって見てください。」
「奥さん、この前もわたしは中津川の連中と一緒に一度お訪《たず》ねしましたが、しかしお宅の皆さんにしみじみお目にかかるのは、今度初めてです。よいお嬢さんもおありなさる。」
 正香の口から聞けば、木曾のような水の清いところに生《お》い育つものは違うというようなことも、そうわざとらしくない。お民は自分の娘のことを客の方から言い出されたうれしさに、
「おかげさまで、あれも近いうちに伊那の方へ縁づくことになりました。」
 と言って見せた。
 正香も伊那の放浪時代と違い、もはや御一新の大きな波にもまれぬいて来たような人である。お民が店座敷から出て行くのを見送った後、半蔵は日ごろ心にかかる平田一門の前途のことなぞをこの先輩の前に持ち出した。
「青山君、あれで老先生(平田|鉄胤《かねたね》のこと)も、もう十年若くして置きたかったね。」と正香は盃を重ねながら言った。「明治御一新の声を聞いた時に、先生は六十七歳の老年だからね。先生を中心にした時代は――まあ、実際の話が、明治の三年までだね。」
「あの年の六月には、先生も大学の方をお辞《や》めになったように聞いていますが。」と半蔵も言って見る。
「見たまえ。」という正香の目はかがやいて来た。「われわれはお互いに十年の後を期した。こんなに早く国学者の認められる時が来ようとも思わなかった。そりゃ、この大政
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