》、池をおおう葡萄棚《ぶどうだな》、玉すだれや雪の下なぞの葉をたれる苔蒸《こけむ》した石垣《いしがき》から、熟した栗《くり》の落ちる西の木戸の外の稲荷の祠《ほこら》のあたりへかけて、かつて森夫や和助の遊び戯れた少年の日の姿をお粂の胸によび起こさないものはないくらいのところである。まったく外界との交渉を絶たれた父が閉じこもった座敷牢からつくづくときき入るのは、この古い池へ来る村雨《むらさめ》の音であろうかなぞと彼女は思いやった。彼女は木小屋の内にある中央の土間を通り抜けて裏口の方へも出て見た。そこに薄日のもれた竹藪《たけやぶ》は父の心をしずめるところを通り越して、北側の窓へおおいかぶさったような陰気なところだ。どうかするとはげしい風雨にねて木小屋の屋根板ぐらいははね飛ばすほどの力を持った青々とした竹の幹が近くにすくすくと群がり茂っているところだ。彼女はそこいらに落ち重なる竹の枯れ葉にも目をやって、父のいる座敷牢の南側の前まで引き返した。その時だ。半蔵は大きく紙に書いた一文字を出して、荒い格子越しにそれをお粂に示した。
「熊《くま》。」
 現在の境涯をたとえて見せたその滑稽《こっけい》に、半蔵は自分ながらもおかしく言い当てたというふうで、やがておのれを笑おうとするのか、それとも世をあざけろうとするのか、ほとんどその区別もつけられないような声で笑い出した。笑った。笑った。彼は娘の見ている前で、さんざん腹をかかえて笑った。驚くべきことには、その笑いがいつのまにか深い悲しみに変わって行った。
[#ここから2字下げ]
きりぎりす啼《な》くや霜夜のさむしろにころも片敷き独《ひと》りかも寝む
[#ここで字下げ終わり]
 この古歌を口ずさむ時の彼が青ざめた頬《ほお》からは留め度のない涙が流れて来た。彼は暗い座敷牢の格子に取りすがりながら、さめざめと泣いた。お粂はただただその周囲をめぐりにめぐって、そこを立ち去るに忍びなかったのである。

       四

 十一月にはいって、美濃落合《みのおちあい》の勝重《かつしげ》は旧《ふる》い師匠を見舞うため西から十曲峠《じっきょくとうげ》を登って来た。駅路時代のなごりともいうべき石を敷きつめた坂道を踏んで、美濃と信濃《しなの》の国境《くにざかい》にあたる木曾路《きそじ》の西の入り口に出た。路傍の両側に立つ一里|塚《づか》の榎《えのき》も、それ
前へ 次へ
全245ページ中227ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング