半蔵の気に入りで、万福寺境内からも彼を連れ戻《もど》って来たように、この場合とても彼を言いなだめることができようということで。
いかな旧|組頭《くみがしら》の庄助もこの役回りには当惑した。庄助が店座敷の方へ行って見ると、ちょうど半蔵はひとりいる時で、円形《まるがた》の鏡なぞを取り出し、それに息を吹きかけ、しきりに鏡の面をふいているところであった。それはずっと以前に彼の手に入れた古鏡で、裏面には雲形の彫刻などがしてあり、携帯用の紐《ひも》の付いたものである。この旧《ふる》い屋敷の母屋《もや》を医師小島拙斎に貸し渡すようになってからも、上段の間だけは神殿として手をつけずにあって、その床柱の上に掛けてあったものである。長いこと磨師《とぎし》の手にもかけないで、うっちゃらかしてあったのもその鏡である。
「庄助さ、お互いに年を取ると顔の形も変わるものさね。なんだかこの節は自分の顔が自分じゃないような気がする。」
半蔵はあまり周囲のものが自分を病人扱いにするので、古い鏡なぞを取り出して見る気になったというふうに、それを庄助に言って見せた。彼はよくも映らない自分の姿を見ようとして、しきりにその曇った鏡に見入っていた。そして、言葉をついで、
「そう言えば、この二、三日はおれも弱ったぞ。恐ろしいやつに襲われるような気がして、夜もろくろく休めなかった。」
「お師匠さま、お前さまはよく敵が来るなんて言わっせるが、そんなものがどこにおらすか。」と庄助は言う。
「そりゃ、お前たちに見えなくても、おれの目には見える。あいつはいろいろな仮面《めん》をかぶって来るやつだ。化けて来るやつだ。どうして、油断もすきもあったもんじゃないぞ。恐ろしい、恐ろしい――庄助さ、大きな声じゃ言えないが、この古い家の縁の下にだってあの化け物は隠れているよ。」
そう言って、半蔵はなおも鏡の面を根気にふきながら、相手の庄助に身をすくめて見せた。
その時まで庄助は栄吉らから頼まれて来たことをそこへ切り出そうとして、しかもそれを言い得ないでいた。庄助は正直一徹で聞こえた男で、こんな場合に一策を案じるというふうの人ではなかったから、うまいことを言って半蔵を連れ出すつもりはもとよりなかったが、しかし裏の木小屋の方に彼を待ち受けるものが座敷牢とは言いじょう、一面にはそれは病室に相違ないから、その病室での養生《ようじょう》を
前へ
次へ
全245ページ中218ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング