郷党に先んじて文明開化の空気を呼吸することも早かった。年若な訓導として東京の小学校に教えたこともあり、大蔵省の収税吏として官員生活を送ったこともあり、政治に興味を持って改進党に加盟したこともあり、民間に下ってからは植松家伝の処方によって謹製する薬を郷里より取り寄せ、その取次販売の路《みち》をひろげることを思い立ち、一時は東京|池《いけ》の端《はた》の守田宝丹《もりたほうたん》にも対抗するほどの意気込みで、みごとな薬の看板まで造らせたが、結局それも士族の商法に終わり、郷里をさして引き揚げて来ることもまた早かった。かつては木曾福島山村氏の家中の武士として関所を預かる主《おも》な給人であり砲術の指南役ででもあった先代菖助がのこして置いて行った大きな屋敷と、家伝製薬の業とは、郷里の方にその彼を待っていた。しかし、そこに長い留守居を預かって来た士族出の大番頭たちは彼がいきなりの帰参を肯《がえん》じない。毎年福島に立つ毛付け(馬市)のために用意する製薬の心づかいは言うまでもなく、西は美濃《みの》尾張《おわり》から北は越後《えちご》辺まで行商に出て、数十里の路を往復することもいとわずに、植松の薬というものを護《まも》って来たのもその大番頭たちであった。文明開化の今日、武家の内職として先祖の始めた時勢おくれの製薬なぞが明日の役に立とうかと言い、もっと気のきいたことをやって見せると言って家を飛び出して行った弓夫にも、とうとう辛抱強い薬方《くすりかた》の前に兜《かぶと》を脱ぐ時がやって来た。その帰参のかなうまで、当時妻籠の方に家を借りて、そこから吾妻村《あずまむら》小学校へ教えに通《かよ》っているというのも弓夫だ。
「やっぱり先祖の仕事は根深い。」
 とは、弓夫が高い声を出して笑いながらの述懐だ。
 旧本陣奥の間の風通しのよいところに横になって連れて来た女の子に乳房《ちぶさ》をふくませることも、先年東山道御巡幸のおりには馬籠|行在所《あんざいしょ》の御便殿《ごびんでん》にまで当てられた記念の上段の間の方まで母のお民と共に見て回ることも、お粂には久しぶりで味わう生家《さと》の気安さでないものはなかったようである。東京の方にお粂夫婦が残して置いて来たという二人の弟たちのことは半蔵もお民も聞きたくていた。弓夫らの話によると、半蔵の預けた子供は二人ともあの京橋鎗屋町の家から数寄屋橋《すきやばし
前へ 次へ
全245ページ中180ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング