年寄役|桝田屋小左衛門《ますだやこざえもん》、同役|蓬莱屋《ほうらいや》新助、同じく梅屋五助、旧|組頭《くみがしら》笹屋《ささや》庄助、旧五人組の重立った人々、それに年若ではあるが旧《ふる》い家柄として伏見屋の二代目伊之助からその補助役清助の名まである。しかし、半蔵には何の沙汰《さた》もない。彼も今は隠居の身で、何かにつけてそう口出しもならなかった。ただ宗太が旧本陣の相続者として今度御奉公申し上げるのは、彼にはせめてものなぐさめであった。
 御巡幸に先立って、臣民はだれでも詩歌の類を献上することは差し許された。その詠進者は県下だけでもかなりの多数で、中には八十余歳の老人もあり、十一歳ぐらいの少年少女もあると聞こえた。半蔵もまたその中に加わって、心からなる奉祝のまことをわずかに左の一編の長歌に寄せた。
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 八隅《やすみ》ししわが大君、かむながらおもほし召して、大八洲国《おおやしまくに》の八十国《やそくに》、よりによりに観《み》て巡《めぐ》らし、いちじろき神の社《やしろ》に、幣《ぬさ》まつりをろがみまし、御世御世のみおやの御陵《みはか》、きよまはりをろがみまして、西の海東の山路、かなたこなた巡りましつつ、明《あきら》けく治《おさま》る御世の、今年はも十あまり三とせ、瑞枝《みずえ》さす若葉の夏に、ももしきの大宮人の、人さはに御供《みとも》つかへて、東《ひんがし》の京《みやこ》をたたし、なまよみの甲斐《かい》の国、山梨《やまなし》の県《あがた》を過ぎて、信濃路《しなのじ》に巡りいでまし、諏訪《すわ》のうみを見渡したまひ、松本の深志《ふかし》の里に、大御輿《おおみこし》めぐらしたまひ、真木《まき》立つ木曾のみ山路、岩が根のこごしき道を、かしこくも越えいでますは、古《いにしえ》にたぐひもあらじ。

 谷川の川辺の巌《いわお》、かむさぶる木々の叢立《むらだち》、めづらしと見したまはむ、奇《くす》しともめでたまはむ。
 我里は木曾の谷の外《と》、名に負ふ神坂《みさか》の村の、嶮《さか》しき里にはあれど、見霽《みはら》しの宜《よろ》しき里、美濃の山|近江《おうみ》の山、はろばろに見えくる里、恵那《えな》の山近く聳《そび》えて、胆吹山《いぶきやま》髣髴《ほのか》にも見ゆ。
 ももしきの美濃に往《い》かさば、山をおり国|低《ひ》きかれば、かくばかり遠くは見えじ。しか
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