一部の禁止林を立て置かるるには異存がないから、その他の明山の開放を乞《こ》い、山地住民の義務を堅く約束して今一度山木と共にありたいとの趣意にほかならなかった。もっとも、多年人民の苦痛とする五木の禁止が何のためにあったのか。それほどまでにして尾州藩が木曾山を監視したのはどういう趣意にもとづいたのか。それが当時は十露盤《そろばん》ずくで引き合う山でもなく、結局尾州家の財源にもならなかったとすれば、万一の用材に応ずる森林の保護のためにあったのか。それとも東山道中の特別な要害地域を守る封建組織のためにあったのか。あるいはまた、木曾川下流の大きな氾濫《はんらん》に備えるためにあったのか。そこまでは半蔵らも知るよしがなかった。
 明治の御世《みよ》も、西南戦争あたりまでの十年間というものは半蔵には実に混沌《こんとん》として暗かった。あれから社会の空気も一転し、これまで諸方に蜂起《ほうき》しつつあった種々《さまざま》な性質の暴動もしずまり、だれが言うともない標語は彼の耳にも聞こえて来るようになった。この国のものはもっと強くならねばならない、もっと富まねばならないというのがそれだ。言いかえれば、富国と強兵とだ。しかしよく見れば、地方の人心はまだまだ決して楽しんではいない。日ごろ半蔵らの慕い奉る帝《みかど》が新時代の前途を祝福して万民と共に出発したもうたころのことが、また彼の胸に浮かぶ。あの時に帝の誓われた五つのお言葉と、官武一途はもとより庶民に至るまでおのおのその志を遂げよと宣せられたその庶民との間には、いつのまにか天《あめ》の磐戸《いわと》にたとえたいものができた。その磐戸は目にも見えず、説き明かすこともできないが、しかし深い草叢《くさむら》の中にあるものはそれを感ずることはできた。それあるがために日の光もあらわれず、大地もほほえまず、君と民とも交わることができなかった。どうして彼がそんな想像を胸に描いて見るかというに、あの東山道軍が江戸をさして街道を進んで来た維新のはじめの際、どんな社会の変革でも人民の支持なしに成《な》し就《と》げられたためしのないように、新政府としては何よりもまず人民の厚い信頼に待たねばならないとして、東山道総督の執事がそのために幾度も布告を発し、堅く民意の尊重を約束したころは、そんな磐戸はまだ存在しなかったからであった。たまたまここに磐戸を開こうとしてあら
前へ 次へ
全245ページ中158ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング